PEACE MAKER 2

□逃げられませぬ
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先生は掴みどころがない独特の空気をもつ人だと思う。何を考えているのか他人に悟らせない不思議な人。あのひとはいつだってわたしの知らないところでわたしの知らないことを考えていて、わたしの知らない遠くの世界を見据えている。以前そう坂本さんに話したら「あの人はみすてりあすじゃき」と異国の言葉で得意げに語っていた。鈴はそんな先生だからこそとても魅力的でどこまでも付いて行きたくなると言っていた。いつか自分もそんな先生が見ている世界を目にしたいと。そういう鈴はよっぽど先生に心酔しているらしい。

白い煙を高く登らせて煙管を吹かした先生は、酒を一口飲むと切れ長の目を伏せて肘掛けに身体を預けた。酒の独特の匂いが狭い部屋に充満し、脳を侵食していく。上等な生地の黒い着流しから覗く白い足はとても艶かしく、鋭い視線でわたしを捉えると全てを見透かしているかのように目を細めた。


「ねえ先生」


先生の名を呼ぶと、先生は目を伏せたまま低い声で「どうした」とわたしに返した。先生の低い声はもうそれだけで媚薬のように容易にわたしの脳を麻痺させ、名前を呼ばれればおかしくなってしまいそうになる。そんなわたしは忍に向いていないとつくづく思う。先生の空になったお銚子にもう何杯目になるのか、酒をゆっくりと注ぎ込むと先生は再び口を湿らせた。


「先生はわたしに手をだしてはくれないのね」


先生は特に顔色も変えず驚きもせず、なんでもないように酒を口に運んだ。ほんとうに他人に悟らせないひと。徳利を盆に置いて、窓際から月を見上げるとちょうど夜風が吹き込んできて、わたしの髪を揺らした。外を見下ろすと夜も更けてきたというのに、相変わらず行きかうひとの笑い声で賑わっていて、いま日本が倒幕だとか佐幕だとかで争っているようにはとても思えなくなってしまう。正直わたしはどちらでもよくて、先生がそうしたいようになればそれだけで満足なのだ。

コツンと陶器のぶつかる音に振り返ると、先生は相変わらず澄ました顔で酒をたのしんでいた。「そんなにわたし魅力ない?」先生はわたしの言葉に銚子の中の酒を見つめながらそれを揺らすと、応える代わりに小さく笑った。


「先生には負けるけどそれなりに色気はあるつもりよ。それとも、それほどわたしが大切?」


外とは違いここには静寂な空気がゆっくりと流れる。先生と向かい合うように座ると先生の視線がわたしの赤い着物に移ったのがわかった。普段は仕事で黒い忍装束ばかり着ているし、休みのときは休みのときで特に出かけるわけでもなし、年頃の娘が着るような可愛らしい着物もあいにく持ち合わせてはいなかった。そんなわたしに先生は何も言わずこの着物を贈ってくれてからというもの、わたしは仕事以外ではこの着物しか着なくなった。


「わたしのことが嫌いなわけではないでしょう?でなければわたしをそばに置くわけがないもの」


わたしが迷惑なら鈴を置けばいい。あの子は腹立たしいくらい先生に依存しているし、だからこそ信用もできるしそれなりに腕も立つ。鈴がわたしに向ける嫉妬の視線に気づいていて先生はなにもしないんだから、ほんとうに悪いひと。

圧力に耐えきれなくなるわ。そう大げさに振る舞うと、先生は「そうか」とくつくつと笑った。


「わたしの先生に対する好意を知ったうえでそばに居させてくれるんですものね」

「・・・おまえには降参だな」

「理詰めなら負けるつもりはないですよ」

「お前は頭がいいからな」


短く笑うと煙管を吹かし、わたしに煙管を向けて先生は不敵に笑った。


「ならば、わたしをその気にさせてみせるがいい」


先生の表情はいままで見たことがないほど妖艶で、鈴も知らないのだろうと思うとわたしも小さく笑った。先生が余裕でいられるのもいつまでかしら。いつかきっとわたしに喰われたらおもしろいのに。


「そうさせていただきます」



逃げられませぬ


title『瞑目』




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