色んな妄想

□君が私で私が君で
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 君に、為りたいと思った。
 君の様に、為りたいと思った―――。




―――――




 空には満月。
 池に映りこんだ金色が、鯉の尾に叩かれてぐわんと弛む。
 りーんりーんと茂みから聞こえる虫の泣き声は、秋の終わりを嘆くようだった。


 五年生の寮の外廊下に、柱に寄り掛かる気怠げな影がある。
 くすんだ茶色掛かった髪と、先の丸い鼻が特徴的なその人は、誰が見ても、不破雷蔵だと言うだろう。
 しかし、庭を見るともなしに眺め遣るその底の見えない双眸に深く沈んだ色は、雷蔵には持ち得ない暗澹としたものだった。

「………」

 つと上がった長い指先が、頬を撫ぜる。
 瞼に触れて、鼻筋をなぞり、唇に添わせた。
 指先から伝わる冷ややかな温度と、ひどく近しい友と全く同じ造作。

 名も無い感情が、色などとうに捨てた空洞の胸に落ちた。

(雷蔵――)

 それがあの人の名前だと思うだけで、気味が悪いくらいの甘さを帯びる。
 何度も紡いだ。
 胸の中で、声帯を震わせて、鼓膜を侵す響きにすら、心が騒ぐ。





――僕、不破 雷蔵っていうんだけど。

――君は、なんていうの?

――君の、名前は?







 初めてその声を聞いて、キラキラと輝く双眸を見て。
 差し出された小さな掌の熱に。
 嗚呼、こうなれたら。
 この、穏やかで綺麗な子供のようになれたら、いいのにと。

 それ以来、ずっと雷蔵の顔を借りている。
 いつも誰より傍にいた。
 一番に彼の名を呼ぶのも、最後に彼の名を呼ぶのも、みんな自分だった。
 雷蔵は困ったように笑って、でも少しだけ照れ臭そうで。

――恥ずかしいなぁ。

 頬を赤くしてはにかんだ彼の横顔に、心臓が止まるかと思った。

(これは末期だ)

 醜く歪んだ汚穢を隠すように、綺麗なあの人の皮を被った。
 雷蔵の隣はとても温かくて、雷蔵の声はとても甘くて、雷蔵の笑みはとても落ち着く。

(雷蔵、雷蔵、雷蔵)

「雷蔵」
「なぁに?」

 溢れそうになって思わず声に出した呼び掛けに、記憶と同じ声がいらえた。
 柄にもなく慌てそうになって、踏み止まる。
 気付かれないように一度深呼吸をして、振り返った。

「三郎、こんな夜更けに何してるの?部屋を抜け出したりして…」
「ちょっと、ね」

 床板を軋ませることもなく、いつの間にかそこに雷蔵が立っていた。
 雷蔵には嘘をつく気になれないから、鉢屋は誤魔化しにすらなってない台詞を返す。
 雷蔵は「ふーん」と怪訝そうな顔をして、鉢屋の隣に腰を下ろした。

「僕、知ってるよ」
「なにを?」
「三郎って、訳解んないこと考え出すと一人になりたがるよね」

 立てた膝を抱えてこちらを見詰めてくる双眸は、多少大人びてはいるけれど、あの日と変わらない純粋さを湛えていた。

「訳解んない、って」
「ふふっ」

 首を傾げた鉢屋に、雷蔵は小さく吹き出す。

「三郎が僕のことをよく見てるのと一緒だよ。僕だって、三郎のこと、よく見てるつもり」

 鉢屋は、月明かりに照らし出された見慣れた顔を凝視した。
 真っ直ぐ見返してくる雷蔵の澄んだ眼差しが、鉢屋の胸を熱くさせる。

「君が朝起きて、一番最初に呼ぶ名前は僕の名前で、寝る前の最後に呼ぶ名前も僕の名前。…僕だって、そうなんだよ」

 僕が一番最初に呼ぶのは君の名前で、一番最後に呼ぶのも君の名前。

 全部見透かされて、鉢屋はいっそ笑いが込み上げてきた。
 彼のように為りたい、彼に為りたいと願う。しかし、彼には肝心な所で敵わないのだと。

「雷蔵には、敵わないな」
「僕だって、三郎には敵わないよ」

 花が咲き綻ぶように頬が緩み、冷ややかな月明かりすらも柔らかな光りに変えてしまえる。
 違うよ雷蔵。やっぱり、私の方が遥かに敵わないよ。
 だって君は、こんなにも。

「雷蔵は、とても綺麗だね」
「え、なぁにいきなり」
「雷蔵は、あったかくて、優しくて、柔らかくて…。私を、たちまち惑わせてしまう」

 そっと指を伸ばす。
 触れることを躊躇うほど滑らかな肌を、畏れるような仕種でなぞった。
 雷蔵が笑う感触が、指先に伝わる。

「ほら、やっぱり訳解んないこと考えてた」

 雷蔵の手が、鉢屋の手を取って、掴んだ。
 顔をどんなに似せたって、声をどんなに似せたって、雷蔵の温かな掌までは真似できない。

 視線が絡んだ。言葉もなく、顔を寄せる。触れた唇は甘い。
 雷蔵が目を閉じたから、鉢屋は目を開けたままにした。
 だって、雷蔵は雷蔵で、鉢屋は鉢屋でしかないから。

 いっそ君に為ってしまいたいと何度も思ったけれど、その甘い唇を知ってしまったらもう無理だった。









(君に恋をしたら、君になれなくなりました)

End
 

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