三國無双


□悔恨ニ溺レル
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 夜が更けて暫く経ち、曹丕が屋敷の戸を叩いた。
 予め人払いは済ませてある。
 政権を争う兄が訪れると側近や側女に知れれば、彼等は絶対に頑として曹植の傍を離れないだろう。
 それを見越して、口の固い初老の守衛と、屋敷に入って間もない状勢を知らぬ若い娘だけを残した。

「手回しが良いな」

 そう言って皮肉げに片頬を持ち上げた曹丕は、招き入れられた客間の長椅子にゆるりと腰掛けた。
 何処へ行っても、その王者然とした自信に満ち溢れる所作には濁りがない。
 自分こそが覇王の器で有ると、言外に示唆する様だと曹植は思った。

「酒を持って来た、月を肴に呑むのも良かろう?」

 曹丕が差し出す大振りの瓶を、有難う存じます、と賜る。
 他人行儀な、と鼻を鳴らす兄に、親しき仲にも礼ありと申します、そう返せば曹丕はクツクツと楽しげに喉を鳴らした。

「盃を持って来させましょう」

 直ぐに側仕いを呼び盃を二つ頼むと、曹植は漸く曹丕の向かいに座った。
 机一つを隔てただけの距離。
 彼とこんなに近くで見えるのはいつ以来だろうかと、感慨に耽った。

 盃が用意され、曹丕が瓶を開ける。
 酒独特の、甘い様な苦い様な匂いが鼻を刺す。

「兄上、私が…」
「構わぬ。久しく逢わなんだ兄に世話くらい焼かせろ」

 曹丕は腰を上げた曹植を片手で制して盃に酒を注いだ。
 一つを自分に。もう一つを曹植の前に。

「申し訳ありません、兄上」

 曹植は、訝しんでいた。
 
 目だけで射殺さんばかりに凄絶な視線を送って来た彼と、今目の前に居る彼とでは、差がありすぎる。
 先程の言葉の真意も掴めない。
(兄上……)

 怪しむと同時に、淡い期待を抱く自分が居た。
 もしも、今までの曹丕の視線や態度が、全て自分の思い違いならば。
 後継の話の際、過敏に物事を捉えてしまっていただけならば。
 曹植は目の前に置かれた盃を眺めた。
 兄が手ずから注いでくれた酒。
「子建、呑まぬのか?」

 子建。
 あの頃と変わらぬ声が、字を呼ぶ。

 曹植は盃を手に取り、曹丕に掲げた。

「頂戴致します、兄上」

 開け放たれた窓から覗く月が、燭台の頼りない灯よりも煌々と部屋を照らす。
 盃の縁に唇を当て、傾けた。

「――――」

 曹丕が、笑う。

 思わず曹植は目を見開き、僅かに酒を嚥下したところで盃を傾ける手を止めた。

「――子建、よもや帝位を争う兄の注いだ酒を疑いもせず口にしようとは思わなんだ」

 種を明かす様に語る曹丕は、実に愉しそうに喉奥を鳴らして肩を揺らしている。
 それを長い時間を掛けて噛み砕いて理解した瞬間に、曹植は弾かれた様に手の中の盃を床に投げ棄てた。
 音を立てて落ちた盃から零れた酒が、見事な意匠の織られた絨毯に染みていく。

「っあ、兄上…!」

 愕然として絞り出した声は情けなく裏返った。
 胸が激しく脈打ち、曹植は体を震わせる。

「私を殺したいならばっ、そう仰せになれば宜しかろう…っ」

 怒りとも悲しみともつかぬ思いが、腹の中でのたうち回っていた。
 優雅に肘掛けに凭れる曹丕が浮かべる薄笑いを目にして、行き場の無い感情が体中から噴き出しそうになる。

「兄上…!!」

 答えて下され、と嘆く。



 
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