冥の泣きピエロ
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ゴウと千景の周りに風が吹き荒れる。
風はただ吹くだけでなく、衝撃波のようななにかもオプションとして付いている為に、激しすぎるカマイタチ現象のようだ。
千景の周りを、風だけでなく鈍い光を撒き散らす珠が現れ始めた。
そう、これは千景の必殺技とも言えるべきものだった。
聖戦では敵に使うことはなかった技。
それを今、デスマスクに放とうとしている。
条約なんて、もうどうでもいい。
ただ目の前の聖闘士が、神経を逆撫でるのが我慢ならない。
バカにしてんじゃねーよ。
思わず口が悪くなったが、千景に罪悪感などない。
相手が悪いんだ。
光珠を右手に集め、更に小宇宙を高める。
小宇宙を高めたことによって、突風の勢いも比例して激しさが増していく。
「条約なんて、知ったことか!」
悪人風な顔をひきつらせながら落ち着け!と声を発するデスマスク。
制止する声を聞き流し、光珠をデスマスクへと風を纏わせながら飛ばした。
光珠はデスマスクを標的にし、無数の光の矢のように飛んでいく。
しかし形状は珠に留めたまま。
何故なら千景の魔星は、クラウン。
そう、ピエロだ。
クラウンがピエロだと知った千景が最初に思いついた技。
それが。
「レイ・ジャグ!」
珠が光線の様に蟹座へと向かう。
標的へ一寸の狂いもない。
しかし光珠が蟹座に当たることはなかった。
止められたからだ。
攻撃を放った千景は、目を細めながら、攻撃を止めた人物を見やる。
それは、アンドロメダの瞬だった。
覚えていないわけがない。
千景の主、冥王ハーデスの依代だった聖闘士だったから。
今や、蟹座に対する怒りが高まっていた千景は、突然のアンドロメダ登場により、冷静さを取り戻した。
小宇宙を鎮め、殺気も消していく。
強ばっていた何かがズルリと抜け落ちた気がした。
身体を支えきれなくなった足が折れ、硬い石段の上に座り込む。
なんてことをしてしまったのだろう。
せっかく条約を結んだのに、全て水の泡だ。
どうでもいいなんて思っていたさっきまでの自分はおかしく、愚かだ。
身体中が異様に震える。
私は、何もできないの?
「千景!」
喪失感に埋まった千景の耳に響く友の声。
顔を上げれば、いるはずのないルネが、いた。
呆然とする千景に駆け寄り、震える肩に触れる。
「なんで……?」
「心配だったのですよ、貴女が。」
何があったのかを分かっているはずなのに、己の身を心配してくれたルネの優しさが、痛い。
非があるのは自分だから、責めて欲しかった。
自分の行った事の重大さを、理解させてほしかった。
己より僅かに低い体温に抱きしめられながら、千景は涙を流す。
一筋がだんだんと増え、溢れる。
焦点のない眼をしながら、うわごとのようにごめんなさい、ごめんなさい。
何度も同じ言葉を繰り返す千景。
ただ、ただ、心配で。
千景に回している腕に、力を込めた。
「アンドロメダ、ありがとうございます。」
「あっ、ううん。でもその人大丈夫?」
本当に千景を心配する声音だった。
安心させる為に一度小さく頷くルネ。
相変わらず千景の反応はない。
そう、まるで心が死んだような……
あってはなりません、そんなこと!
脳内に浮かんだ考えが、否応なしにルネの中を冷やしていく。
もし、このままになってしまったら、なんて、考えたくもない。
ギュッと更に力を込めて引き寄せると、聞こえるかの瀬戸際で、苦しい……と千景が言った。
「ルネ、わたし……」
「無理して喋らないでください!」
もうこのまま冥界に帰ろう。
目を閉じて、ルネは千景の髪に顔を埋めた。
しかし、そう上手くはいかなくて。
「その冥闘士の身柄を渡してもらうぞ、バルロン。」
双子座の兄がこれほど憎いと思うなんて。
聖闘士がこれほど憎いと思うなんて。
静かな絶望が、辺りを包み込もうとした。
The footstep of despair approaches
(絶望の足音が近づいて)