冥の泣きピエロ

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石の扉から現れた訪問者の顔をそれぞれ確認した瞬間、足の力が抜けた。
座り込み、放心状態の千景。
現状をさっぱり把握できていない。


当たり前だった。
把握しているのは計画の発案者ミーノスだけだ。
用意周到を掲げるミーノスですら、この状況を打破できるという確証はない。




そのために働いてもらうのですがねえ。
一般平均よりも長い前髪。
覆われ見ることの叶わない目はきっと酷く愉快げに歪められていることだろう。


教皇の足元に崩れ落ちた千景に今すぐ駆け寄って安心させてあげたい。


この瞬間にでも歩みを開始しようとする身体を必死にルネは押さえ込んだ。
直属の上司であるミーノスの計画を台無しにしたくはないし、何より行ってしまったら己の指は手は腕は。
教皇を殺すための働きをするであろう。
重々承知していた。


ルネは唇をきつく噛んだ。
鉄錆が口内に広がった。






「三巨頭が何ようだ。」






使者でもないだろうに。
淡々と感情の抑揚を何人にも悟らせない口調は、流石二つの聖戦に関わったことがある。
底知れぬ実力を感じとるには充分すぎた。


しかしその威圧感を感じてもいないように笑みを消すことなく対峙するグリフォンに、千景が恐怖を抱いた。


怖い怖い。
身体中が警報のサイレンを鳴らす。
頭を割るようなけたたましい痛み。




やめて、みんなどっか行っちゃえ!!
みんなみんな消えてしまえばいい!!


私を惑わすものは全部いなくなって……
だってそうすれば私も傷つかない。
私のせいで誰かが傷つくこともなくなる。
だから何もかもなくなってしまえ。




まとまらない思考は確実に根をはり、千景の心を侵食していく。
両手を頭に添え、髪を力任せに掴み上げる。
常人なら声を上げるであろうほどの痛みが走り抜ける。
しかし今の千景にとっては、痛みは存在するものではなかった。


そっと静かに降り注いだ歪みが、精神を心を全てを喰らう。
何をすれば、どのような方法論をとれば誰も傷つかずにすむのか。
そんなこと、人間が『心』という名の感情を宿す限りありえはしない。


だが、それも。




千景には届かない。
この場から、ありとあらゆる『何か』から目を背け、逃げ出せればそれでいいのだ。






「……た、が。」






聞き取れないか弱い声は、断片的に鼓膜を震わすのみ。
そっと千景に近寄ったルネは不安げな表情を浮かべ、千景の肩に触れた。


否、触れようとした。
千景の全身に薄い膜が現れたのだ。
深い深い闇の色、消滅の虚無色。
冥界よりもずっと悲しい冥府の証となる色彩。




生ありし存在には似合ってはいけない色が何故だろう。
その姿によく映えた。






「私がいるから!!」






私なんか消えてしまえばいいのにね!
狂ったように乾いた情の無い笑い声は教皇宮を震わせる。
同時に放出される小宇宙は敵意も好意も何一つなかった。


千景の豹変は、誰もが震撼をした。
あの意思を曲げぬ通った瞳には、今何が浮かんでいる?


そして不運かな。
少女を慕っている少年が、教皇宮に足を踏み入れた。
変わりように、言葉が出ない、息すらも。






「……千景さ、ん?」


「氷河!ダメだよ!!」






瞬が咄嗟に口にした言葉の意味を、氷河は理解したくはなかった。
どうしてあの人の目は何も映していないんだ?
どうして、どうして。


疑問のみが回転してまとまりがつかない。


苦しげに目を細め、ただ少女に向かって叫んだ。






「千景さん、千景さん!!」






その叫びはあまりにも悲痛で、聞いている側に痛みを感じさせるほどだった。
しかし、少女を正気に戻すまでには至らない。
宮内に狂い声が未だ木霊する。






「私を、私の目の前から全て消して!」






拒絶の言葉は、深く抉る。
誰にかすら判別できない望みは叶える者などいないのに。
宮にいる全員、いや氷河を除いた人間たちは思った。


その想像は、悪すぎる意味で裏切られた。






『我が主よ、貴女を悲しませないのが、我が存在意義。』






突如空間が軋み、罅割れた。
あってはならない現象に唖然するばかり。


割れ目から這うように姿を現したのは、紛れも無い。
クラウンの冥衣。
千景と同様に、虚無のオーラをその身にしっかりと明確に宿している。


クラウンを目に映した途端、千景は静かになり、そして満面の笑みを浮かべた。






「クラウン、私もう嫌になっちゃった。甘いよね。」


『そのようなこと、有りますまい。貴女はもう御休みに。』






言葉を最後に、少女と冥衣は消えた。
文字通りいたという痕跡すら残さず。


どこで、道はズレを生じたのだろう。
今更悔やんでも無駄だ。
少女は消えたのだから。



教皇宮内には、ただ後悔のみが存在を許されたように静寂が支配していた。






Good-bye,the departure completely,the string
(糸絶ち切りさよなら)

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