短編集

トライ×フライ
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どこかで、星を見てる。
だれもが、空を見てる。






トライ×フライ



 僕は死ぬ事にした。
 目の前に広がる光景が僕にとって最期の世界ならば、それはそれは絶景だった。そう考えるなら清々しいもので、軋むフェンスに背中を預けながら、悲しいその夜景を傍観していた。

 太陽が眠った地平に宿る人工の星。天を仰ぐよりもよっぽど綺麗だ。足元から広がっている美しい光景を見詰めていると、何だか自分が支配者にでもなった気分だ。人間が高級ホテルの最上階で優雅な夜景を楽しみたいという気持ちを抱く理由を、僕はこの時初めて知った。

 しかしながら、残念な事に、ここは廃ビルの屋上なのだが。
 もう一度言おう――僕は死ぬ事にした。

 心を病むと死にたくなるのだが、それは間違いだろう。それではまだ、心にゆとりのある証拠でしかない。あんぐりと大きな口を広げてこちらを凝視している闇と病みに囚われてしまうと、死ぬしかなくなるのだ。死という選択肢以外を見付ける事が出来なくなってしまう。

 僕は生来不器用だ。折り紙で鶴を折っていたはずなのに、それは新たな造型の始まりで、前衛芸術とまで言われた。勿論指先だけの話なら個性やら特徴やらというポジティブな気持ちで何とでもなる。不器用な人間は不器用な生き方しか出来ないのだろう。大学は中退、派遣という地位は喧しい人事部により暇を出され、今のところ面接は十五連敗中。そんな状況が続いたからだろう、てっきり飼い馴らして克服したはずの僕の中の黒い塊が、再び牙を剥いた。もう何日も寝付けていない。食べてもいない。むしろ食を受け付けない。

 悲観的になりすぎだろうか――冗談じゃない。僕の足に絡みついた重く錆び付いたこの枷をどうやって外せというのか。鍵なんてどこにもない、誰も持ってはいない。外すには飛び降りて身体ごと砕くしかない。

 つまり僕は、自分の人生の支配者にも社会の支配者にもなれなかった。だからせめて自分の意志で終結させよう。
 なので、死ぬ事にしたのだ――が。


「……離してくれませんか?」

「絶対いや」


 いざこの身体を地面に叩きつけようと覚悟を決め、この世知辛い世の中からサヨナラしようとしたというのに。フェンス側から、がっちりと襟首を掴まれている。
 よりによってこんな時に、なぜ廃ビルに人が来たのだろう。
何とも間抜けな格好のまま、長い時間が経過していた。


「離してくれませんか?」


これは何度目のセリフだろうか。


「絶対いや」


これも何度目だろうか。
 透き通ったハイトーンの声音が僕の背中に突き刺さる。まるでガラス細工のように繊細な声は聞いていて心地が良いのだが、今の僕にとって、意志の明確なその声は煩わしいだけだった。

 素直に死なせてもくれないのだろうか。立ち上がる事も立ち続ける事も、座り込む事も億劫でしかない。訪れる明日が怖くて仕方がない。一人きりでいる夜がとてつもなく長く感じる――それが怖い。世界が静止してしまったのではないだろうか、そんな気にさせる《今》が怖くて、死にたくて死にたくて、終わりにしたいのに。僕の襟首を掴まえている少女がそうさせない。

 解放されない苦しみを何とか胸に押し込めて、仕方なしに振り返れば、つり目の少女が仁王立ちしていた。声の印象を裏切らない顔をしていた。カッチリとした黒縁眼鏡。風で揺らいでいる対の三つ編みとセーラー服。優等生をイラストに起こしてみろと言われれば、誰もがこんな少女を描くだろう。けれどもそんな優等生には不釣合いなほど鋭い視線を擡げ、小さな唇を尖らせてこちらをじっと睨み付けている。

 僕の襟首を離すつもりなど毛頭ないのだろう、僕が彼女のように睨みを利かせても、ふんっと鼻先であしらわれた。腹立たしい。


「自殺者を引き止めて、正義の味方にでもなったつもりですか?」

「残念だけど、私は自殺とか尊厳死、安楽死には賛成なの」
 

 小馬鹿にしたように吐き捨てたが、彼女もまた僕と同じように吐き捨てた。


「じゃあ離してください」

「絶対いや」


 矛盾だらけだ。
 視線の先の少女を凝視したまま腹立たしさを露にするが、彼女は全く臆する事なく、むしろ堂々と跳ね除けている。黒曜石のような漆黒さを持っている瞳は、一瞬たりとも僕から逸らしたりしない。噛み付いたら離さないスッポンのような少女は微動だにしない。

 頬を撫でる柔らかな夜風が僕を和ませようとしてくれているのだが、彼女に掴まれているせいでストレスを感じる方が多い。綺麗だった夜景も鬱陶しくなり、煩わしいだけだ。

 過度のストレスから引き攣り始めた頬を隠す事なく、僕は言葉を続ける。


「ああ、見て見ぬ振りは出来ないっていう事ですか? それとも生きたくても生きられない人間がいるんだから、馬鹿な事はやめなさいとでも言いたいんですか?」

「何で私があなたに説教なんてしなきゃいけないの? 冗談じゃない、そんな七面倒臭い事、頼まれたって絶対いや」

「君は絶対いやしか言えないんですか?」

「それ以外の言葉も言ってるでしょう?」


 逐一小煩い少女だ。透明度の高い声を背後で聞き続けたからだろう、頭がガンガンしてきた。こめかみを右手で押さえてその苦痛を紛らわすが、ストレスからは逃げられない。下ろしたままだった左手が苛立ちのリズムを刻んでいる。僕の脳内はわなわなと震えている身体を落ち着かせようと必死のようだが、理性は既にぶっ飛んでいる。正直、ぶん殴ってやりたい。

 しかしこんなところで一悶着を起こしたところでどうしようもない。僕は胸に積もる苛立ちを押し殺しながら、突き飛ばすように冷たい口調で言い放った。


「君は自分が良い事をしているとでも思ってるんでしょう? 残念だけど、それは自分に酔っているだけですよ。自己陶酔。所詮は格好つけてるだけですよ。偽善者と何ら変わらないですし、自分に自信があるだけ余計に手に負えない」


 唇を吊り上げて嗤った――けれど、少女の顔は変わらないままで。彼女を取り巻く世界が止まってしまっているのではないかという錯覚さえ感じた。けれども、冷えた風が頬を撫で続け、彼女の髪を揺らしている。この世界は確かに動いているのに。確固たる確信が生まれてこない。
 だから、先を急いでいる僕は言葉を続ける。


「僕は君を巻き込むつもりなんてないですし、僕がここで自殺したところで気に病む必要もない。なので、さっさと帰って寝て下さい。明日はきっと学校でしょう?」


 気持ちを吐露したところで、彼女の表情は変わらなかった。それが僕の中に募ってゆく苛立ちを余計に意識させる。ここで彼女に押さえつけられている襟首を振り払って強引に飛んでも良かったのだが――それが出来なかった。

 宵闇で包まれた廃ビルの屋上に降り注ぐ、青白く幻想的な月光に包まれた少女。きりっと意志がしっかりと現れている瞳。頚椎という急所を晒しているからだろうか、不自然に咽が鳴る。唾液を嚥下しただけで、彼女が背後で掲げている冷徹なナイフが食い込みそうだった。浮かんでいる月よりも冷たい眼差しは、ただただ僕の背中を先端で脅す。

 ああ、枷が、枷が外れていないのか。冷えた目線から逃げられないのは、僕の足に重い鎖が巻かれているからなのか。揺らぐ思考回路を抱えたまま――ただ黙して、彼女を見詰めるだけしか出来なかった。


「ねえ」少女の囁きは、じわりと屋上に広がる。「あなたは飛ぶの?」

「夜景が見たいという理由だけで、フェンスを乗り越えるとでも?」

「まあ、そうね。聞くだけ野暮ってものよね」

「今更そんな大前提を聞かれても困りますよ」


 減らず口をそのままに返事をしたものの、僕は少しだけ嫌な汗を掻いていた。こめかみを押さえたままだった指先が妙に滑る。苛立ちで震えていた左手は、違う意味で震えていた。

少女の瞳に宿っている凶器に臆しているとでも言うのだろうか。こちらを見据える冷たい目線に恐怖を感じているのだろうか。……今まさに、一生のうちで一番怖いだろう時間を過ごそうとしていると言うのに。影を縫われたかのように足は止まり、宙へと踏み出さず冷ややかなコンクリートを踏み締めている。

彼女に襟首をひっ捕らえられてから、様々なものが繋ぎとめられてしまっていて。腹立たしい。腹立たしいのに、振り払えない。故に、ただ僕は待っていたのだろう。彼女が何かを告げるのを。


「飛ぶのね」

「飛びますね」

「じゃあ教えて。あなたは何のために飛ぶの?」

「……」


 何のためと、言われても。
 自分のため。終わりにするため。自分にはめられた枷を外すため。身体を砕くため。要するに、僕は死ぬために死ぬのだ。
 夢に満ち溢れて単身上京し、毎日毎日原稿用紙と格闘していた。部屋に敷き詰めた空白の原稿用紙は空想世界。僕は鉛筆だけでどこまでも行けた、何でも救えたのだ。囚われのお姫様を連れ出して巨大な龍を剣で薙ぎ倒した。時には女子高生のように、淡い恋心を懐き、憧れの先輩に思いの丈をぶつけた。拳銃を片手に裏の世界で暗躍し、夜の闇に紛れて生きてゆく生き様も楽しかった。

 ただ、そんな生き方は、僕には出来なかった。全ては空想。あくまで希望。ただの夢物語。簡単に言えば小説。敷き詰めた原稿用紙をどれだけ文字で埋めようとも、それらが何かを生み出した試しはなかった。次第に僕の文字は痩せ細り、ついには筆が折れ、途切れてしまった。

 目の前の世界が霞がかって見えた僕は、確固たる意思も持たずに働き始めた。粉々になった鉛筆と意志を拾い集めて、再度繋ぎ合わせる事もしなかった。むしろ出来るだけそれらを見ないように上を向いて暮らした。一度くらいの挫折、乗り越えられると信じて。

 ところがどうだ――今の僕は無職、世間で語られる派遣切り、夢に敗れた不眠症兼うつ病患者。これこそ小説にでもなりそうな負の連鎖だ。筆を取る事も出来ない、満足に食べる事すら危うい状況下。それだからこそ選んだ終焉に意味を見出せと?


「《死ぬ》という目的のために、飛ぶのではないですか?」

「残念だけど不正解」


 少女はそう言って眼光の鋭いその視線を更に強めた。脆弱な星の光など彼女に視線には敵わないだろう。そんな強烈とも言えるだろうその視線の持ち主は、ただはっきりと僕に言ってのけた。


「希望に満ちて飛んだら、死んだだけよ」


 一向に離す気配のない彼女の手。まるで締め付けられるかのように感じた襟首。襟首に神経が通っている訳ではないのに、やたらとそこから確かな《彼女》を感じていた。
 肯定する事も言い返す事も出来ずに、僕は彼女の深い色をした視線に囚われていた。そして初めて、彼女の透明な声音が僕に向かって優しく弾けた。


「せっかく死ぬのなら、私のために死になさい」



 
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