無双
□春の兆し
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《春の兆し》
市内を走る市電の『大蛇第一高校前』駅で降り、目の前の住宅地に入ってまっすぐ徒歩五分。
白い外観の洋館が見えます。
そこが、紅茶専門の喫茶店『花鶏』です。
店主、武田信玄が古今東西から集めた紅茶と一流パティシエが作る美味しいお菓子が食べられるそこは、老若男女に人気がある。
大蛇第一高校の図書館司書、毛利元就も花鶏の常連の一人だ。
とくに、春限定の桜餅が出回る時期はあしげなく通ってくる。
「いらっしゃいませ、三矢先生」
花鶏のパティシエ兼ウェイターの島左近は、元就が現れると軽い口調で挨拶をする。
元就の方は、『三矢』と言われると顔を赤くし、クセのある髪ごと頭を掻く。
三矢……『三矢元春』とは、元就が執筆活動をしている時に使っているペンネームだ。
元就は、図書館司書をする傍ら歴史関係の本を書いている。
と言っても、鳴かず飛ばずで一部の歴史好きのマニアと本好きに好評だが、売り上げ部数はそこそこだ。
だからこそ、学校で図書館司書をしながら活動出来るのだが……。
一部の教師を除き、彼が作家であることを知っている生徒はいない。
それどころか、いったい何人の生徒が元就の著作を読んでいるのかわからない。
そう考えると、少し暗い気分になる。
「今回は、どの辺りを書かれるんですか?」
「戦国時代の中期から後期、終末期辺りの創作小説だよ」
「また珍しい」
今は空前の戦国ブームらしくその時代、特に織田信長や少し下って伊達政宗、真田幸村が人気らしく仕事が入ってくる。
ただ厄介なことに、人気があるのは十代後半から二十代全般の女性らしく、恋愛中心に書かないといけない。
正直、歴史を逸脱しても良いから恋愛中心に書けと言われ悩んでいた。
誰を題材にして書くかも問題だが、果たしてそのような話が書けるかどうか……。
そう悩みながら始めたためか、話がいっこうに進まず一ページも書けない。
気晴らしのため来たのだが、どうやら選ぶ店を間違えたかも知れない。
元就は、小さく溜め息をつく。
左近は、そんなことお構いなしに「誰を書くんですか?」と聞いてくる。
「高橋統虎辺りは穴場ですよね、最近人気が出てきたみたいですし」
「きみ、楽しんでるだろ」
なまじ知識のある左近は、ひどく楽しそうに、一人の武将の名前をあげた。冗談半分だろうが、あれやこれと話しだす。
元就も、気まずそうな顔で返答するが、どこかばつが悪そうにしている。
しかし、元就から注文をとっていない事に気づいた左近は会話を止めた。
「毛利さん、注文は春限定のアレで良いですか?」
「あぁ、頼むよ」
ばつが悪そうに頬を赤くする元就に、左近はまた可笑しそうに笑った。
そして、手早くやかんで一人分のお湯を温めると、春限定の桜の紅茶の葉をポットに入れ、小皿に桜餅を用意する。
桜餅は、米粉で作った桜色のクレープ生地で丸くした餡を包むシンプルなものだ。
焼く際に、桜の塩漬けを塩抜きし良く水気を取ったものを乗せ、一緒に焼いている。そのため、生地の中に一輪の桜が咲いているように見える。
この桜餅は特に老齢の方々に人気があり、昨年から数は少ないがテイクアウトが出来るようになった。
元就も、買えないことが多くたまに買えたとしても、1個がせいぜいだ。
左近は、欧州でパティシエの修行をしそちらで賞ももらっている。
彼の作る洋菓子も美味しいが、和菓子もそれなりの物を作る。
不思議な人だと出された桜の紅茶を口に含み、元就はしみじみと思った。
「今日は、桜餅は買えるかい?」
「はい。珍しく二つありますよ」
人の悪い笑みを浮かべ、ひどく楽しそうにしている左近を恨めしく見ながら桜餅を購入した。
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