排球

□海辺の帰り道
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 吹き渡る夜風から、かすかに潮の匂いがした。

「…ったく、テメーのせいでとんだ遠回りじゃねーか」
 海岸沿いに伸びるアスファルトを前にして、影山は隣の日向に呟いた。
 昼間の賑わいが嘘のように、車一台通らない。海と山に挟まれた道には民家もあまりなく、世界から取り残された錯覚に陥りそうになった。
「しょうがねーじゃん。知らない道なんだし。それに影山だって一緒に走ったじゃんか」
 そんな意識を打ち破るように、日向のあっけらかんとした声が響く。
「そりゃ、お前が走り出したからだろ」
 影山が言い放つと、日向は不満そうに頬をむくれさせた。
 美女たちと焼肉を食べて、店を出た。そこで日向は何故だか走りたくなり、その場をダッシュしていたーー合宿所とは逆方向へ。
 影山も、日向が駆け出せば競わずにいられない。周りの声も聞こえず、反射的に後を追っていた。
 そして気がついた時、二人は合宿所どころか、焼肉屋からも離れていた。
 月の明るさと、申し訳程度に設置されている街灯が頼りだった。ビーチバレーをした砂浜も闇に沈んで、波の音だけが遠く、繰り返し聞こえる。
「なー、影山」
 掠れた白線の上を器用に歩きながら、日向が口を開いた。
「なんだよ」
「腹減った」
 理解に苦しむ内容に、影山は思わず顔をしかめた。
「…あ?」
 ついさっき焼肉食ったろうが。
 表情だけでそう語っていたのかも知れない。応じるように、日向が答えた。
「おれ、さっき緊張してあんま食えなくてさ」
「勧められて、ガツガツ食ってたじゃねーか」
 影山は言いながら、美女の隣で日向がガチガチに固まっていたのを思い出した。そういえばビーチバレーの時も、日向の顔は終始ゆるんでいた。
「いつもに比べたら全然食ってねーもん。味もよく覚えてないし」
「…んな話、知るかこのボゲ。マヌケ面しやがって」
 平静を装いたかったのに、不機嫌さを抑えることが出来なかった。生ぬるい風を切るように足を速める影山に、ムッとした日向が食ってかかった。
「お前だってビーチでひでー顔してたぞ! 変態みたいにさぁ」
「俺は砂に感動してたんだよ! テメーと一緒にすんな!」
 影山としては心底本当のことだったが、日向は納得できないと口を尖らせた。
「…影山だって、焼肉食いながら美女としゃべってたじゃん」
「あれはどんなトレーニングしてんのか聞いただけだ」
「……」
 すっきりしないまま、黙りこむ二人。打ち寄せる波の音が、その場を支配していた。
「…とにかく、何か食いもん買いたい。走ってる時、お店見たし」
「勝手にしろ」
 物別れした雰囲気で進んでいくと、ほどなく小さな売店に出くわした。
「やった!」
 日向の瞳が輝く。そのまま駆け出そうとしたが、ポケットに手を突っ込むなり、情けない声を上げた。
「かげやまぁ…」
 何となく予想はついたが、目を凝らして差し出された手のひらを見ると、百円玉が一枚、乗っかっていた。
「そんだけしか持ってねーのかよ」
「むぅぅ…」
 呆れた影山に、日向は悔しいのか恥ずかしいのか、顔を赤らめて俯いた。拗ねたようなその表情に、
(…ちくしょう。かわいいぞ、コラ)
 不覚にも見入ってしまう。
「影山?」
 怪訝そうに首を傾げる日向に、慌てて我に返った。
「大体、食いてえんだったら財布持ってから言え、このボゲ…」
 今の感情を悟られまいと声を張り上げたものの、ポケットを探った影山の勢いが、急速に落ちていく。
 どんなに探っても、硬貨一枚しかない。
「……」
 嫌な予感がした。
 街灯の下で、影山は握った手のひらをゆっくりと開く。一瞬、赤銅の光がきらめいたと思ったら、十円玉だった。
 …日向の十分の一しかない。
 受け入れ難い事実に、影山の手が悔しさで小刻みに震えた。
 一方、日向はきょとんとした顔で、しばらく硬貨と影山を見比べていたが、
「お前の方が少ねーじゃん!」
 勝ち誇ったように十円玉を指さした。
「うっせークソボゲ! 俺はテメーと違って肉食って満足してんだよ! いらねーならもう行くからな!」
「ウソウソ! 待って影山さん!」
 十円玉を引っ込めようとする影山に、日向は慌てて取りすがった。


 百十円を手にした日向が売店にいる間、影山はガードレール越しに海を眺めていた。
 風が、闇に溶けた水平線を渡ってくる。遮るものは何もない景色。
(…言わなきゃ、わかる訳ねーのにな)
 湿り気を帯びた空気に煽られながら、影山は溜め息をついた。
 美女に舞い上がる日向を見るのは面白くなかった。
(勝手に好きになって、勝手に妬いてどーすんだよ)
 真っ黒にさざめく海が、今の自分の心境を映し出しているのではないかと思えてくる。
(…カッコ悪ぃ)
 目を伏せた時、
「影山!」
 背後から弾んだ声。
「ジャムパン買った!」
 日向が跳ねるような足取りで戻ってきた。
 肉まんはなかったけどなーと、日向は人の気も知らず、無邪気に笑う。
(…アホらし)
 日向はこういう奴なのだ。
(知ってて、好きになっちまったんだもんな)
 そんな影山の思いをよそに、日向はパンを二つに分けると、おもむろに片方を差し出した。
「食う?」
 迷いのない日向に、逆に影山が戸惑った。
「…腹減ってんの、お前だろ」
「減ってるけどさ。十円のお礼」
 分けられたパンはほぼ同じ大きさである。
(…もらい過ぎだろ)
 影山の内心を見透かすようなタイミングで、
「あと、逆走のおわび!」
 ちょっとは気にしていたらしい。
「…じゃあ、食う」
 影山も走って小腹が空いていたため、もらうことにした。
「うめー!」
 日向は満面の笑顔で海に向かって叫ぶ。イチゴジャムの甘さと潮の香りが混じって、不思議な味がした。
 部活帰りに肉まんを食べる時と同じ、のびのびした表情が戻っていた。
 緊張されないというのが良いのか悪いのか。影山にはわからないまま、二人並んでパンをかじった。
「ありがとな、影山」
 不意に、日向が落ち着いた声で呟いた。
「十円のことか?」
 お返しはもう受け取っている。
「それは置いといて、お前がいて良かったって意味!」
 話が伝わらない影山に、日向はじれったそうに言った。
「はぁ?」
 いつも喧嘩ばかりしている相手が言うこととは思えない。ますます影山は混乱した。
「…悔しいけど、もし今おれ一人だったら、絶対ビビってた。知らない場所だし、暗いし」
 海を見つめながら言葉を続ける日向。ちょうど雲間に隠れていた月が現れ、その横顔を白く照らした。
 淡い光に包まれたまなざしが滑るように動き、まっすぐ影山を捉えた。
「でも、お前と一緒だと全然怖くない」
「……っ」
 日向から向けられた言葉に、影山は思わず息が詰まりそうになる。
 自分と同じ感情ではないかも知れない。それでも肯定的な気持ちを向けられたと確信した瞬間、影山は日向に手を伸ばし、その小さな体を抱きしめていた。
「へっ?」 
 腕を引かれ、気づくとふわりと影山の胸に顔を埋めていた日向が、ぱちくりと瞬きを繰り返す。
「…か、影山?」
 柔らかい髪に頬を寄せた時、日向の戸惑った声がして、影山はようやく自分がしていることを自覚した。
「……………」
 何やってんだ、俺。
 恐る恐る視線を下にやると、腕の中で困ったような顔の日向と目が合った。
 打ち寄せる波が、そのまま怒濤の後悔へ変わっていく。影山は慌てて体を引き離したが、もう遅かった。
「てっ…てめーが変なこと言うからだこのクソボゲェ!」
 恥ずかしさと焦りで、言い訳も出てこない。苦し紛れの逆ギレだった。
「変なことって何だよ、おれのせいにすんな! お前の方が変だろ!」
 言いがかりをつけられた日向も声を荒げ、途端に険悪な雰囲気になってしまう。ここは日向の方がもっともだと思いながらも、
「うっせーな、俺ばっかテメーのこと意識してアホくせえって言ってんだよ! お前はデレデレしっ放しだったろーが」
 ついに影山は言ってしまった。
「なっ…」
 日向が更に驚いて、唖然と言葉を失った。
 最悪な気持ちの伝え方になってしまった。
「…悪かったな」
 影山は辛うじてそれだけ言い、日向を置いて歩き出した。逃げるのは嫌だが、それ以上にいたたまれなかった。
 さっきの日向の困惑した表情で、自分は勘違いしていたのだとわかった。チームメイトとしての信頼はあったかも知れないが、それは自分の気持ちとは違っていた。
 仲間としてであれ、日向も自分に好意的な感情を持っていて、それを表してくれたことが、
(…嬉しいと、何で思っちまったんだろうな)
 どうしてそんな思い違いをしたのだろう。内心で自分をなじりつつ、影山は先を急いだ。
 日向も少し間を置いて、ついてくる足音がした。けれど空いた距離は縮まることもなく、無言で歩く道のりは長く感じられた。
 どれ位経ったろうか。
 後ろの日向の足取りが、急に速まった。バタバタとうるさく踏みならして、駆け出すのがわかった。
(…走って帰る気かよ)
 いっそ、その方がいいかも知れない。
 しかし影山の予想は外れた。日向は影山を追い抜いたが、その先の古びたガードレールに掴まって、海に対峙した。そして大声で叫んだのだ。
「わーーーーっ! 影山のアホーーーーーっ!!」
「おい!?」
 ビックリした影山が止めようと傍に行くと、日向が憮然とした顔で振り返った。
「何やってんだ、日向!」
「だって影山のせいだもん! お前があんなことするから、おれ、すげードキドキしてきた!」
 そう喚く表情の中に、怒りだけではない赤い色があった。
「…時間差かよ」
 これも勘違いだったら、もう笑うしかないが。
「お前のおかげで、今日のこと全部吹っ飛んだ! せっかく美女と一緒にいたのに、そーゆーのどっか行っちゃったじゃんか! さっきのこと考えてると、胸の辺りがぐわーっとしてくるし、もう訳わかんねー!」
 眼下の暗い砂浜にダイブしかねない勢いの日向に、
「だったら、責任取ってやる」
 影山はためらいなく、もう一度日向を引き寄せた。
「わっ…クソ影山…」
 驚いた日向は腕の中で暴れたが、半ば強引にそれを押さえ込む。
「…もう離してやんねーからな」
 遠慮なく腕を回し、力強く体を包み込むと、日向の拗ねた声がした。
「…だから、お前に触られたら、またドキドキするって…」
「すればいいだろ。…俺だって、お前にいつもそうだっつーの」
 日向の頭をかき抱きながら、影山が呟く。今こうしている間も、波の音をかき消すほどに心臓が高鳴っていた。
 それが伝わったのだろうか。日向は観念したように抵抗をやめ、影山の胸に体を委ねた。やがて、おずおずと影山の背中に腕を回す。
 互いの体温を感じながら見る海は、月の光を鮮やかに反射していた。黒い水面の上に、白い光が一筋の道のように伸びて、どこまでも続いていた。
 

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