The Blood in Myself
□望みの行方
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耳元でかすかな振動を感じて、三景はゆっくり目を開けた。
和室の窓から差し込む光は、もはや西日となっていた。
夕べ『仕事』を終えて戻ってから、沈没するように布団に潜った。それからずっと眠っていたらしい。
あまりに長く寝すぎたせいか、瞼が重い。夢の世界はまだすぐ傍にあった。
彼を呼び覚ましたのは、無造作に置かれたスマートフォンだった。着信を知らせ、震え続けている。
「…んだよ…」
三景は寝転んだまま、面倒くさげにスマートフォンを手にする。だが画面に表示された名前の意外さに、眠気が飛んだ。
『いつまで寝てんだ、このサボりー!』
スマートフォンの向こうから、元気な声が聞こえた。つい半月前に転校してきたクラスメート、篠田陸の声。
「うっせーな。…姉貴に聞いたのか?」
三景は答えながら、布団脇の畳に置かれた小さな保冷ボックスを一瞥した。『回復』のために、姉から飲むよう言い渡されたその中身も、未だ手付かずだった。
『違うよ、一羽さんは関係ない。おれの直感。図星なんだろ。すげーな、おれ!』
「自分で言ってんじゃねーよ」
得意げに声を弾ませる陸に、三景は拗ねたように言った。出会ってから最も日の浅い相手に見抜かれてしまうとは。だが悔しい反面、理解されることへのくすぐったさもあった。
『なー、三景。おれ、今お前ん家の前にいるんだけど』
陸が明るい口調で、聞き捨てならないことを言った。
「あ?」
三景が飛び起きて窓の外を覗くと、塀の先で手を振る紺のブレザー姿が見えた。
『お前ん家デカすぎて、玄関わかんなくなっちゃった。お見舞いに来たから、入れてよ』
昨晩。
「三景、明日学校でしょう。ちゃんと飲んでおきなさい。でないと回復が遅れるわよ」
三景が家に着くなり、姉の一羽が保冷ボックスを手に、部屋を訪れた。
「……」
しかし三景は布団にうつ伏せたきり、それを受け取ろうとしない。
「ーー篠田君の血でなければ飲めない?」
一羽の口から出た名前に、三景はと反応する。少しして、渋々と上体を起こした。
「…あいつの血は、もう吸わねえよ」
そう言いながらも、ふて腐れたように唇を尖らせる弟に、一羽は溜め息をつく。
「だったら今まで通り、この輸血用の血液を摂ることね。普通の食事と睡眠だけじゃ、時間がかかる」
彼らの一族は、退魔という特殊な役割を担っている。霊性に優れ、特異な能力を有する一方で、ある体質を持っていた。
能力を使うと、人の生き血を欲すること。退魔を行った疲労は深く、その特効薬となるのが人の血だった。
「わかってる…」
だが彼らはそんな特性を隠して生きている。血の補充も、一族の人脈で入手した輸血用の血液を使っていた。
一羽も三景も、そうしてきたのだ。最近まで。
だが今、三景はそれでは満足できなくなってしまった。陸の血の味を知って以来、他の血を砂のように感じてしまうのだ。
「…過去にも何人か同じ例があったそうよ。母さんから聞いたことがある」
初めて聞く話に、三景は軽く目を見開いて、続きを待った。
「吸血の性質は共通でも、その嗜好には個人差があるの。誰の血でも拘らず飲む者もいれば、特定の人間の血を好む者もいる」
三景は膝を抱えて、答を探すように虚空を見つめた。
「姉貴…そいつらは一体どうなったんだろ?」
「その呼び方やめなさいって言ってるでしょ」
一羽はいつもの説教口調になりかけたが、思い直して、まっすぐ弟を見つめて言った。
「…諦めるか、執着し続けるか、人それぞれ。どうするにせよ、私たちはこれからも血を補充して生きていかなきゃいけない。だから自分で決めるしかないのよ、三景」
「一羽さんは会社? これ、ケンケンのお見舞い! お前プリン好きなんだって? あ、このクッキーはイインチョから」
陸は部屋に入るなり、嬉々として差し入れの説明を始めた。しかし、布団に座ってそれを見つめる三景の表情は複雑だった。
「…おい」
「あと古文のプリントなー」
「陸!」
苛立った声を上げる三景に、ようやく陸はきょとんとしたまなざしを向けた。
「なに?」
「お前バカか? 一人で俺の所に来る奴があるかよ」
いかにも喧嘩を売るような三景の言葉に、陸もカチンときた。
「心配して来てんのに、そんな言い方ないだろ!」
「テメーが無防備過ぎんだよ。今日だって、何で俺が休んだかーー」
「血を吸ってないからだろ?」
三景の言葉を遮って、陸はそう言い切った。
「…お前…」
わかってんじゃねえかよ。
だがそうなると、三景には陸がここへ来た理由が、一層わからなかった。
「…やっぱり図星じゃん」
畳の上で足を伸ばしながら、陸は不機嫌さの残る顔で呟いた。
「バカは風邪ひかないっていうしさ。お前が体調悪くするっていったら、退魔とかいうやつだろうなと思った」
「バカは余計だっつーの」
三景は思わず、学校にいる時と同じ軽口を叩いたが、
「…怖くないのかよ。俺はお前に噛みついて、血を吸ったんだぞ? また吸わせろって言ったらどうすんだ」
献血とは違うのだ。どんなお人好しでも、進んで自分の血を吸わせてくれる者はそういないだろう。
「あの時はおれにも落ち度があったもん。しょうがなかった」
半ば睨むような三景の視線に、陸は肩をすくめてぼやいた。その仕草はあまりに自然で、危機感とは程遠かった。
「そりゃ少し痛かったよ。人が人の血を吸うとか、ましておれの血が美味しいとかあり得ねーって、今でも思ってる」
首筋に牙を突き立てられた時の、本能的な恐怖。陸はまだそれを忘れた訳ではない。
そしてその恐怖をもたらしたのは、同じクラスで席が隣で、最初に教科書を借りた相手だったのだ。
「でもお前、血を飲まなきゃダメなんだろ? 今だってちょっとしんどそうだし」
「んなことねーよ。寝てたって治る」
三景は強がって言ってみたものの、少しだるさが残っているのも確かだった。
「…じゃあ、吸えば?」
陸が不意に、呟いた。
「ーーえ?」
三景は言っている意味が理解できなかった。
「家にある血が飲めないなら、おれの血吸えばって、言った」
「お前、自分が言ってる意味わかってんのか!?」
こいつはわざわざ、血をやりに来たというのか。クラスメートというだけなのだから、これ以上関わらないことも出来るのに、どうしてそんな気になるのだろう。
「一度きりの話じゃねーんだぞ。この先ずっと俺に血を吸われることになっても、いいのか」
陸の茶色い瞳が意志を固めたように、三景の漆黒の瞳を見据えた。
「お前にはおれたち家族を助けてもらったし…。お前って口は悪いし目つきも悪いし、何でも自分が勝たなきゃ気がすまないヤな奴だけどさ」
「…復活したらシバくぞ、テメー」
「おれ、お前がしんどくて倒れてる方が嫌なんだよ。お前が人に言えない秘密抱えてんの知ってんのに、何もしないなんて嫌だ。そりゃ、たくさん血を吸われたら困るけど…」
陸のたどたどしい言い分を、三景は半ば唖然として聞いた。まるで陸の言葉が、閉ざそうとしていた扉の隙間に射し込む一筋の光のようで、ゆっくりと心の何かが照らし出されていくようだった。
三景はそっと腕を伸ばすと、陸の体をふわっと抱き寄せた。
「わっ…」
三景の胸に飛び込んだ陸が小さく声を上げ、次に首筋を襲うであろう痛みに体を硬くしたが、
「ーーこれでいい」
陸の予想に反して、三景は彼を抱きしめたまま、何もしなかった。
「へ?」
陸はかなり拍子抜けな声を出した。さっき口ではああ言ったものの、内心では血を吸われることに怯えてもいた。
「俺は今日寝たおかげで、ほとんど回復してんだよ。お前の気にふれるだけで、充分だ…」
そう言うと、陸の体が安心して緊張が緩むのがわかった。
陸の血が欲しくないと言えば嘘になる。だがそれ以上に、陸に無理をさせたり、傷つけたりしたくない気持ちがあった。
もっとも、今はある程度回復しているから、そう思えるだけなのかも知れない。血に飢えた状態に陥れば、自分は迷わず彼を襲ってしまうのではないか。
そう思うと、三景の胸は苦しくなった。
「三景…本当にいいのか?」
腕の中の陸が問う。
本当は欲しくてたまらない。陸の血を吸える時を、心待ちにする自分がいるのだ。
だが三景は葛藤を振り切るように、より強く陸の体を抱きしめた。
「いいって言ってんだろ。その代わり、次に血が要る時、もらうからな…」
陸の柔らかい髪が、三景の頬をくすぐる。陸の匂いや温かさが、ただ心地良かった。
「何だそれ、予約かよ…」
呆れたようにぼやいた陸だったが、やがて三景に身を委ねるように、胸に顔を埋めた。
人からこんなに抱きしめられるのは初めてで、陸はどうすればいいのかわからなかった。しかも相手は三景だ。
でも陸は、三景がいいと言うまでこのままでいようと思った。もちろん回復のためだが、三景に甘えられているようでもあって、
(何かちょびっとだけ…可愛いかも)
などと感じる自分がいた。
一羽さんが帰ってきて今のおれたちを見たら、ビックリするだろうな。
背中や腰に回される三景の腕に、陸はそんなことを考えた。
これから先、自分は三景に血を吸わせ続けるのだろうか。覚悟はあるかと問われたら、正直わからないけれど、
(でも、もう少し、このままで)
互いの体温をすぐ傍に感じながら、二人は心の中で同じことを願っていた。