The Blood in Myself
□第2部 峡谷の底
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三景は、とても気分が良かった。
陸の血の味は、三景に深い陶酔をもたらした。喉に染み渡ると身体中に力がみなぎり、自分がやりたいことは何でもできる、そうしてよいのだと思えた。
だから三景は、血を吸った後も陸を放さなかった。ようやく手に入れた、待望の贄。
(そう、俺のものだ――)
内なる声の欲するまま、三景は陸に再び覆い被さると、ごく自然に口づけていた。血の甘美さに加え、溶かされそうな熱さが伝わってくる。三景は身じろぎする陸を離さず、夢中でその唇を貪った。
「……んっ……」
闇と静けさが支配する病室に、陸の切なげな息づかいが響く。濃密な時間は、永遠に続くかと思われた。
だがその矢先、部屋の片隅でカサリと何かが動く物音がした。わずかな異変であったが、その音が三景に我を取り戻させた。
(――?)
口にふれる柔らかい感触に違和感を抱いて、三景は幾度か瞬きした。ほどなくして、ふれているものが人の唇であることに気づくや否や、三景は天地をひっくり返す勢いで身を起こした。
改めてベッドを見下ろすと、そこには陸が横たわっていた。いつそんなことをしたのか、己の手が陸の両手を枕の横に押さえつけている。そして、首筋に小さな噛み傷をつけられた陸は何も言わず、胸を上下させるのみだったが、
「……篠田……」
三景が呼びかけるのとほぼ同時に、
「山那……『贄』って、こういうことだったのか?」
陸の口が開き、かすれた声で問うた。暗がりでその表情までははっきりしないが、その声は震えているようでもあった。
「……」
三景は何も答えられなかった。
(……俺は一体、何をした?)
陸のうなじに歯を立てて、それから――。
有無を言わさず奪った唇のことを思い出し、三景は愕然とした。
陸の血を味わった途端、自分の心の留め金が弾けとんで、信じられない衝動に突き動かされた。飢えた獣のごとく、陸という獲物を食らいつくすこと。その欲求に完全に支配されていたのだ。
(そんな、どうして――)
貪欲に酔いしれた自分に、身が凍る思いだった。
昂っていたはずの心身から、急速に勢いが失われていく。三景は崩れ落ちるように、寝台の隅に座りこんだ。
その直後、病室の扉が開く音とともに、天井の照明がついた。突如、蛍光灯の光に晒された三景が目を細めていると、足早にこちらへ近づいてくる姉――一羽の姿が見えた。さらに彼女の後ろには、先ほどの看護師が神妙な顔でつき従っている。
三景は相手が姉だとわかっても、力なく腰を下ろしたままであった。陸も放心したように動かない。一羽はそんな二人をしばらく無言で見比べると、
「カナ、篠田くんの手当てをしてあげて」
全てを悟ったのか、看護師にそう指示した。
「わかりました」
カナと呼ばれた看護師はいったん部屋を出たが、すぐに医療器具が積まれた台車を押して戻ってきた。カナは台車をベッド脇に止めると、陸に声をかけて首筋の傷を確認し始めた。
その傍らで、一羽は三景に向き直り、
「彼の血を得たのね、三景」
責めるでもなく、怒るでもない、淡々とした口調で言った。
「俺は、衝動を抑えられなかった……」
三景はそう答えて、自らが敗れ去った者であるかのごとく、うなだれた。
蜘蛛との戦いで深手を負った陸に、三景は己の血を分け与えた。それによって陸の命は救えたものの、今度は三景自身が血に飢えることになり、結局は陸の血を飲んでしまったのだ。
「そうね。だけどそれこそが私たちの本能、本質の一つなのよ。私たちは誰も、生まれ持った性質を抑え続けることはできない。たとえ、それが自分にとって望ましくない、不愉快なものであったとしても」
「……」
姉の言葉に、三景は首を横に振るのみだった。
そして、一羽が再び陸に目をやった時、陸はすでに起き上がってカナの手当てを受けていた。陸は首の傷口を消毒され、保護パッドを貼りつけられながら、
「一羽さんと、どうして、看護師さんも……」
訝しげな面もちで一羽に訊ねた。
「心配しないで。この病院は私たちの一族が経営しているの。だから一部の職員は『影』や私たちが行っていることを知っているわ。ここにいるカナや、あなたの担当医もそう。あなたに何があったか承知のうえよ」
「ええっ!?」
微笑みながら答える一羽とは対照的に、陸は驚きで身が跳ね、ベッドがぎしりと揺れた。予想を超えた内容に、陸は目を白黒させ、口をもごもご動かしていたが、
「色々と話したいことはあるけれど、今夜は遅いわ。篠田くん、どうかもう身体を休めて。あと、首の傷は明日には治るから」
一羽は左腕にはめた時計をちらりと見て、そう言った。もはや日付が変わる時間帯になっていた。
「……はい……」
陸は喉元から出かかった言葉を押し戻すように唾を飲み込むと、
やや声を落として返事をした。そして、どこかやりきれない表情で俯いた。
「私たちも帰りましょう、三景」
一羽に促され、三景は重い足どりでベッドから離れた。
病室を出る前に、三景は振り返って陸を見つめた。しかし、陸は視線を下へ向けたきり、三景の方を見ようとはしない。その胸のうちも見えなかった。
結局、最後まで陸と目を合わせることも、言葉を交わすこともできぬまま、三景は部屋をあとにした。