The Blood in Myself

□第1部 茜の時
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 一週間後。

 陸は、高校の入学式を迎えた。
 学校は社宅から自転車で二十分ほどの、住宅街の真ん中にあった。男女共学で、近くにあるいくつかの中学校からの進学者がほとんどらしい。といっても、東京から来た陸にとっては、初めて会う者ばかりだったが。
 クラス分け発表と入学式を終えたばかりの教室には、すでに窓際や後ろにたむろして話す生徒もいた。しかし、そこにはいきなり一つの空間に集められたばかりの、どことなくぎこちない空気が流れていた。
 紺のブレザーに、えんじ色のネクタイ。中学校で学ランだった陸には、初めてのネクタイは窮屈だった。これをつけるのは行事の時だけで良いと聞いている。早くはずしてしまいたいと思いながら、自分の席につく。
 窓側から二列目の、前から二番目。そこが陸の席だった。
 陸の父はいわゆる転勤族で、二〜三年ごとに引越がある。おかげで、陸は小学校が三回変わった。中学校は入学から卒業まで同じ所に通えたが、高校生活はこうして別の土地で始めることになった。
 だから、知らない町で知らない人の輪に放り込まれるのは、人より慣れているつもりだった。
 全国を転々とする経験から陸が学んだのは、土地や学校の雰囲気には相性があるということ。楽しい所もあれば、合わない所もあったが、いずれにせよ『数年で別の所へ行く』ことが前提の生活になっていた。それは新鮮さをもたらす一方で、友人と長く付き合い、思い出や成長を共有できない寂しさもあった。
 しかし、そんなことを嘆いても始まらない。陸は何気なく周囲を見回してみた。一人で座っている子、もう数人で騒いでいる子たち。その中に、自分と似た雰囲気の生徒がいないか観察する。
(そういう子が、割と仲良くしやすいんだけど……)
 これも、経験から知ったのだ。
 その時、開けっ放しの前方の入口から、一人の男子生徒が入ってきた。それを見た途端、陸の目に驚きの色が走る。
 黒いエナメルに赤いロゴのショルダーバッグを肩にかけ、背筋を伸ばして歩く姿。凛として前を見据える眼差しには、見覚えがあった。
 彼は黒板の前を通って教卓を横切ると、陸の右隣の席にやって来た。そしてバッグを下ろし、無造作に机の上に置いた。
「あ……」
 陸の意識が、一瞬で『あの時』に引き戻される。強烈に感じたインパクトを、忘れられるはずがなかった。まったく予期せぬ形での再会に、陸は何か言おうとしたが、言葉が出ず、弱った魚のように口をパクパクさせるのみだった。
 そんな陸の様子に気づいた男子生徒は、立ったまま、訝しげに陸を眺めた。
 あの時は陸が見下ろす側だったが、状況が逆転した今、相手の身長が自分より高いことがわかった。頭一つ分位の差で、180pはあるだろう。
「ーー何だ?」
 男子生徒が初めて言葉を発した。ぶっきらぼうだったが、あの時のような眼光の鋭さはなかった。野性の獣を連想させた迫力も、今は番犬程度になっている。
(……何だ、フツーの奴じゃん……)
 陸はそれで、少し安堵した。
「せ……先週、うちの、四井商事の社宅にいただろ? おれ、二階から見てて、目が合ったじゃん! もう、スゲー怖くてさ……」
 (……あ。最後のは余計だった……)
 そう口に出してから、陸は後悔した。が、言った言葉は取り消せず。
「……あ?」
 相手の顔が、みるみる険悪になっていくのがわかった。
(しまった、やってしまった……)
 高校デビューに早くもつまづいてしまった。中学時代からリスナーである中高生向けのラジオ番組『スクール・ファン』、その新入学・新学年デビュー特集もばっちり聴いて、心構えしてきたのに。
 陸が内心で合掌していると、窓側の席から別の声がした。
「ーーやんちゃん、あそこに行ったの?」
「え?」
 陸がはたと顔を向けると、左隣の席に座る男子生徒が、気にかけるような視線を自分たちに寄越していた。人の良さそうな顔には、まだあどけなさが残っている。彼を囲むように、別の男子生徒と女生徒もいて、成り行きを見守っているようだった。
「……行った」
 やんちゃんと呼ばれた彼は、短く返事をした。親しい間柄なのか、声のトーンが少しだけ柔らかくなる。
 だが、それは一瞬のことだった。彼は再び険のある表情で陸を見て、
「けど、ちょっと見ただけの奴のことなんか覚えてねえ」
「なっ……!」
 愛想のかけらもない口調でそれだけ言うと、席につくこともなく、さっさと教室を出て行ってしまった。
「な、何だよ、あれ……」
 一人取り残された陸は、思わずそう呟いた。
 自分にとってはこの上なく衝撃的な出来事だったのに、相手は記憶の片隅にも残っていなかった。考えてみれば、その反応が普通で、自分の方がこだわり過ぎだったのかも知れない。けれども実際には、思ったより落胆している自分がいた。
「ーー山那はああいう奴なんや、気にすんな」
 左隣から、強い関西訛りで声をかけられた。
「え?」
 陸が振り向くと、先ほどの男子生徒たちがこちらを見つめていた。
「やんちゃんは、悪い人じゃないから……。あの、名前聞いていい? 僕は大野健太、2中出身」
 心配そうな顔の男子生徒が、気を取り直してそう訊ねてきた。
「おれは、篠田陸。陸でいいよ。東京から引っ越してきたんだ」
「東京から?」
 それを聞いて、今まで黙っていた女生徒が物珍しげに目を輝かせた。つられて、肩まで届くストレートの髪が揺れる。
「ほんまもんやんか。名前だけ東京のお前とは違うで」
 関西訛りの男子生徒の言葉に、女生徒はムッとして切り返した。
「都会には負けないもん。由緒ある名字なんだから。あたし、吉祥寺ゆかり。ケンケンと同じ2中。ちなみに、これは中井。大阪から来て5年も経つのに、大阪弁が全っ然治んないの」
「『これ』ちゃうわ。それに治らんのやなくて、治さんのや。そもそも、何で治さなあかんねん」
 中井と呼ばれた彼は、髪を短く刈り上げ、色黒で体育会系の雰囲気が漂っていた。ゆかりとは、まるで漫才のようなやりとりである。
 陸はそれに圧倒されつつ、
「あのさ、さっきのあいつ……ヤマナっていうの?」
 改めて聞いてみた。
「ああ、やんちゃん? 名前は、山那三景。僕は幼稚園から一緒だけど、いつもあんな感じだから……。でも意地悪とか、そういうんじゃ全然ないよ」
 ケンケンというあだ名らしい健太が、フォローするように明るく言った。
「あいつは単に線引きがはっきりしてるだけや。『他人が入ってええ境界線はここまで』ってな」
 窓際にもたれながら、中井が言う。
「山那は本当に覚えてないだけだと思うよ、陸のこと。人に頓着ないから。女子に人気あるのにねー、もったいない」
 ゆかりがそう言って、表情豊かに笑った。
(やまな、みかげ…)
 陸は初めて訪れた国の言葉を耳にした者のように、心の中でその名前を反芻していた。
 陸の視界の右隅には、机上のエナメルバッグがあった。そしてそれは持ち主の帰りを待つように、妙な存在感を放っていた。
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