The Blood in Myself
□影の末裔
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「陵!」
和式便器に背中から落ちた陵の耳に、伊勢の悲鳴が聞こえた。
しかし、
「あはははは、落ちた〜!」
あろうことか、陵を便器に突き落とした張本人の少年は、彼を指さして笑った。その底抜けに明るい声が、茫然自失だった陵の怒りに、再び火をつけた。
「ねえ、出れる?」
ひとしきり笑ったあと、少年は陵に手を差しのべたが、
「お前の助けなんかいるかっ!!」
陵は吠えるように言うと、伸ばされた手を思いきりはたいた。そして、よろよろと腰を上げ、やっとのことで便器から脱出する。体の痛みはないが、制服は腰の辺りがぐっしょり濡れて、陵の胸中は屈辱ではち切れんばかりだった。
「このクソ野郎……」
陵が、きょとんとする少年に掴みかかろうとした矢先に、出入口のドアが勢いよく開いた。
「あ〜、斉二発見!」
入ってきたのは、二人の男子生徒だった。
「春ちゃん、こうちん!」
彼らもまた、陵の知らない顔ぶれだが、どうやら少年の級友らしい。斉二と呼ばれた少年は、嬉しそうに彼らに手を振った。
「まったく、急にいなくなるんだから――」
そう言いかけた二人だったが、この場の異様な雰囲気を感じ、立ち止まって、やや神妙な顔つきで陵たちを見回す。
陵はなおも少年――斉二をにらんでいたが、やがて舌打ちした。悔しいが、ここで退かなければ面倒なことになりそうだった。
「てめえ、覚えとけよ」
まさか自分がこんな台詞を言う羽目になるとは思わなかったが、陵は低い声で口走ると、斉二を押しのけて出て行った。
「あいつ、ぜってー殺す!」
その後、陵はジャージに着替えると、ぷんぷんしながら教室へ戻った。大半の生徒はすでに部活に参加したり帰宅したりしていて、教室には他に何人かの者がいるだけだった。
この日、体育の授業があったことが、不幸中の幸いとなった。陵はジャージ用のバッグに着られなくなった制服を入れ、自分の席にどかっと座る。すると、それを待っていたように、前にいた小塚が不安げに言い出した。
「せいちゃんにもビックリしたけどさ、それより平井が心配だよ。ぼくがあんな目にあったら、ショックで学校休むかも……親とか先生とかに言うかもしれないし」
「平井?」
陵は数年ぶりに聞く名前のように、目をぱちくりさせた。実際、どこの誰とも知らぬ相手に負けた件に気をとられ、平井のことをすっかり忘れていたのだ。
「うん。陵もちょっとやり過ぎだよ」
と言って眉をひそめる小塚。どうやら平井の顔を便器に押し込んだことを言っているらしい。
「それなら、問題ないんじゃない?」
陵の隣に座っていた伊勢が、ズボンのポケットからスマートフォンの頭だけをこっそり見せた。
「さっきの、撮ったんだ。本人が気づいてれば黙ってるだろうし、もし何か言ってきたら、あいつの顔アップにして拡散しようよ」
伊勢は楽しげに笑いながら、そう提案した。ちなみに彼の容姿は整っていると評判で、今も、その笑顔だけを見た女生徒たちが、窓際でこっそりはしゃいでいた。
「伊勢、それ怖いよ……」
だが、小塚は泥棒にでも会ったように、青い顔で震え上がる。
陵は相変わらずブスッとしたままだったが、
「あいつの好きにすりゃいい。誰にチクろうが、俺にも言い分はあるんだからな。それに、もしあいつが余計なことしてきたら、もっと痛めつけてやるさ」
発覚を恐れるそぶりもなく、堂々と言ってのける。伊勢はそんな陵を見て、心なしか満足そうに目を細めた。
「それより、こづ。さっきの奴と知り合いなのか? いきなり湧いて出てきやがって。一体どこの誰だよ」
陵の問いに、
「ああ、せいちゃんのこと? 山那斉二っていって、ぼくや伊勢と同じ小学校出身。確か、クラスは2組だったかな……ねえ、伊勢」
小塚は額にしわを作りつつ、記憶をたどる。しかし、その話題をふられた伊勢は、
「さあ、そうなんじゃないの。あんな奴ほっときなよ、陵」
先ほどまでの態度を一変させ、そっけなく答えるだけだった。
「そんな言い方……ぼく、小学校でせいちゃんと同じクラスになったことあるんだ。ちょっと不思議系だけど、悪い人じゃなかった」
小塚は伊勢の豹変ぶりに、戸惑いを隠せずに言うが、
「だからって、良い人でもないでしょ。でなきゃ、初対面の陵をトイレに突き落としたりする? 無視した方が身のためだよ」
伊勢はあくまで否定的な意見を覆そうとしない。
「ダメだ。それだと俺の気が済まねえ」
そして、陵も結局、自分の考えを変えなかった。
「その山那とかいう奴に、思い知らせてやる。あんなのに負けたまま、だまってられるか」
「でも陵、せいちゃんにやられてたじゃん」
小塚が顔を曇らせて、ぽつりと指摘すると、
「うるさい! やられたってやるんだよ!」
陵は聞かん気をあらわに、斉二への報復をますます固く決意した。