夢物語
□あなたって人は
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暑い、暑い、暑いったら暑い!
あぁもう畜生め。あの野郎、へらへらした顔で来やがったら承知しない。必死に走って滝のような汗をかいて、あの腹が立つほど涼しげな顔を歪めてるところを見なければ、私の腹の虫は絶対におさまらないんだから。
待ち合わせの時刻からはもう二十分が過ぎていた。
この馬鹿みたいに暑い江戸の橋の真ん中で、私は強い光によって生まれた残像のように動くことなく突っ立っている。
一応日傘は差しているものの、風の吹かない今日のような日にはあまり真価を発揮しない。とにかく暑いものは暑いのだ、どうしようもなく。
下手に動けば一瞬で全身から汗が吹き出してきそうだった。だから私は本当にじっとしていた。
唯一の例外は握り締めた携帯を開いて確認すること。そんな風に見なくたって連絡があれば振動でわかるのだけど、ついつい三十秒に一回くらいのペースで中を見てしまう。
けれど「ちょっと待ってろィ」なんていう身勝手なメールが二十分前に一度来てからは、さっぱり音沙汰がなかった。
あんなメールさえなければとっくに帰っていたろうに。
溜め息をついた。熱い息だった。きっともう少し立っていれば炎くらいは吐けるようになるだろう。
あいつの白い肌を、こんがり焦がしてやる。
唇を噛んで、また携帯を開いた。
「おじょーさん、お困りごとでもあるんですかィ?こんなところで立ち尽くして」
憎い人の声が、聞こえた。
わめき散らしたい衝動を抑え、笑顔を作ってゆっくりと顔を上げる。
さあ、汗にまみれた顔をしていろ。仕事で急な用が出来たとか、まともな説明をしてみろっての。
けれど総悟はいつも通りの涼しい顔で、何故かこのとんでもない暑さの中汗ひとつかいていなかった。
なんだこいつ。
怒りのエネルギーによって、私の全身の毛穴からは汗が次々と湧き出してきた。今までの苦労が水の泡だ。
本当に、こいつはどうしてくれようか。
引きつった頬を汗が流れ落ちて行く。
「あらお巡りさん。実は待ち人が酷い遅刻をしたんです。とりあえずしょっぴいて拷問かけてくださらない?なるべく痛いやつで」
「酷いってまだ二十分しか経ってねェってのに。マゾっ気が足りねェや。調教のし直しが必要かねィ?」
総悟は申し訳なさそうな顔も言葉もちらりとも表に出さない。
もう駄目だ。私そろそろキレる。恥も外聞も女らしさも知ったことか。
幸い今橋の上には通行人が全くいなかった。そりゃそうだ。こんな暑い中往来を歩くなんて馬鹿だ。その上遅刻した恋人を待つなんてもっと馬鹿だ。
あぁ、もう、本当に!
私の笑顔と理性は完全に溶け落ちて、何事もなかったかのように蒸発して消えた。
「調教が必要なのはアンタの方よ、大馬鹿者!女の子こんな暑い中待たせて遅刻するなんてありえない!最低っ!ほんと最低!」
「そこまで言うなんてひでェや。俺のガラスハートが粉々になっちまったじゃねェか」
「私のハートはとうにドロドロに溶けたわよ!バカバカバカー!」
畳んだ日傘で総悟の頭を殴る。けれど軽々と避けられ、しかも呆気なくに奪われてしまった。
日光が容赦なく体に降り注でくる。そうだ、日傘するからいいやって日焼け止めを塗ってこなかったんだ。私、一体なにしに来たんだろう。メラニン色素増やしに来たんだっけ。
「もういい、帰ります、さよなら」
私の日傘をさしたり畳んだりして物珍しそうに眺めている総悟に別れを告げて、踵を返した。
さっさと帰ってシャワー浴びて冷凍庫にストックしてあるチューパット食べて昼寝しよう。こんな酷い奴といたってろくなことない。
嫌いになったわけじゃないけれど、夏の盛りの間はもう顔を見たくないと思った。
「まァそんな怒んなって。良いもん見せてやらァ」
「…なによ」
良いものという言葉に思わず足を止めた。悲しい女の性だ。振り向くのは悔しいので、俯いて足元に伸びた黒い影を見つめた。
そこに音もなく日傘の影が降ってきた。
隣に並んだ総悟に促され、渋々という表情を作ってついて行く。
「なにこれ」
「どう見ても氷だろィ」
連れてこられた橋の近くの薄暗い路地裏の奥には、何故かリヤカーに乗せられた巨大な氷があった。
総悟が日傘を畳んで、近寄って行く。私はそれを呆気にとられたまま見つめていた。
だって、それは本当にびっくりするくらい大きな氷だったのだ。幅はリヤカーにギリギリ収まるくらいだし、高さは総悟の背を軽く超えている。リヤカーの分を差し引いてもやっぱり大きい。
その氷の冷気が原因なのか、この路地裏はさっきまでの暑さが嘘のように涼しかった。
「ねぇ、これどうしたの?」
氷を近くで眺めている総悟に聞く。
「運んでた奴が俺の目の前でぶっ倒れて、仕方ねェから救急車呼んでやったんでさァ」
「うん、えっと、それで?」
「そいつァ意識ぶっ飛んでたし、救急車にゃ入んねェから貰ってきた」
「…勝手に?」
総悟は当たり前のような顔で頷いた。なんか脱力した。
遅刻の原因は人助けをしたからで、汗をかいてこなかったのはこの冷気を放つ巨大氷を運んできたからで、その事実はとても喜ばしいんだけど…。
「こんなすごいもの貰ってきちゃまずかったんじゃない?」
近付いて行って改めて見ると、その大きさに圧倒された。不思議とほとんど溶けている様子もない。なんだか特別なもののような気がしてならなかった。
背筋に悪寒が走ったのは、急に涼しくなったせいだけじゃないような気がする。この氷、絶対なんかある。
「見つけたぞ!!」
私の嫌な予感を裏付けるように、後ろから猛々しい声が聞こえてきた。