話
□空、或いは。
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飛んでみたいと思った。ただ茫漠としたこの空に。
溶けてみたいと思った。このわざとらしいほど青い梅雨明けの空に。
死んだ海月のように。
意志もチャンスもある。足りないのは…理由だけだ。
校庭から聞こえてくる掛け声やら叫び声。太陽の熱を飢えた体に取り込むコンクリート。左手が離すことをやめないペットボトル。そんなものは俺をつなぎ止めておくには足りない。
目の前にはフルスクリーンで青空が広がる。重力をものともせず、俺の心は吸い寄せられかけている。
それなのに実行にうつすことが出来ない。むしろ、だらしなく此処にへばりついている理由があった。
隣にいる、この男。
その存在が、俺に空を求めさせるくせに此処から逃がさないのだ。
ちらりと、寝転んでいる男を盗み見る。坂田は生気のない眼を更にぼんやりさせて空を仰いでいた。目を開けたまま寝ているのかもしれない。そう思わせるほど活力が見いだせなかった。
『なァ、サボって屋上行かね?』そう誘ってきたのは坂田の方だった。本人はただ悪友を道連れにしただけのつもりだろうが、俺にとってはデートに誘われたようなものだ。それで胸中を喜びでいっぱいにしながら連れ立ってきたのだが。
膨らんでいた胸が萎むのにそう時間はかからなかった。もしかしたら何か自分に話があるのかもしれない、などという期待に反して坂田はこうして寝転んだまま一言も発することはなかった。
あァ、本当にこいつはサボりたかっただけで、きっとその道連れは俺じゃなくても構わなかったのだろう。そう思うとやりきれなかった。浮かれていた自分がこの上なくバカな人間に思われた。持て余した想いをどうしてやったらいいのか、叶わない恋ならばいっそ抱えたまま消えてしまいたい。そんなことを考えていた。
こんな卑小な恋心が、漠たるものに抗えるわけもないのだ。吸い寄せられていく気持ちは俺一人では止められない。
いっそ、俺が溶け消えればこの空も少しは汚れるのだろうか。この男の目にも映されるのだろうか。
我ながら思考が女々しくて嫌になった。嫌になるのにどうすることも出来ない。飛びたい消えたいなどと言いながら、みっともなく側にいることをやめられないのだ。
重い腕を持ち上げて時間を確認した。もうすぐ5限が終わる。流れた額の汗を拭って、また空を見やった。快晴、雲一つない空、良い天気…目の前に広がる景色につけられた幾つかの名前を思い出す。
良い天気なものかと舌打ちを一つ。もしも雨が降っていたならこんな惨めな思いもせずに済んだろうに。
下らない考えばかりが頭を巡ってどうしようもない。俺がのび太ならドラえもんになんとかしてもらえるのだろうが、生憎俺は土方十四郎で、それ以上でもそれ以下でもなく此処にいる。空を飛べずに。
不意に。掴まれた左手が、ペットボトルを落とした。小さく乾いた音がした。伸びてきた腕の主を見やると、少しだけ生気を取り戻した瞳があった。
「えっ?」
触れられている手首が少しだけ冷えた。坂田の体温はいつも低くて、その変わらない温度に安心感をおぼえる。無機物よりは温かくて、俺たちよりは冷えた、生命。ドラえもんもこんな温度をしているのかもしれない。
助けて、ドラえもん。
そう言ってすがりついてしまいたいと思った。そうしてこの不快な暑さとやり切れなさから一時でも逃れるのだ。
俺の完全に沸ききった頭は、血管を通して全身の筋肉をけしかける。しかし、湿気にほだされて腑抜けた体は動き方を忘れていた。
金縛り。
「どうした?」
なんとかまた口を動かす。背中を流れていく汗の感触がやけにはっきりと感じ取れた。
坂田は何を言おうか考えているようで、銀色の前髪が落ちた眉間には珍しく皺が寄っている。
口を塞いでしまおうか。そうすれば何も言わなくて済む、お互いに。そう考えてもみたがやはり体は動かない。
手首にかかる圧力が少し強くなった。坂田と俺の体温はいつの間にか融合していた。初めからくっついていたような感覚。まるでシャム双生児のような。
坂田が口を開くと、俺の体に纏わりついていた空気が静かに動いた。
「行くなよ」
全てを見透かしたかのような台詞に動揺する。飛び跳ねた鼓動が伝わらないようにと左腕に力を込めた。なるべく平静を装って、聞き返してみせる。
「…行くって…何処にだよ」
「空は…」
「空、は…?」
俺の質問を無視して、坂田は何かを言いかけた。頭から湯気が出そうなほど動揺が増す。おい、なんだってそんなに鋭い?俺の考えなど何もかもお見通しか?そう問いたくなるが、口から出たのは情けないオウム返しだった。
「もっと暑いよ?」
手が離れていって、体の拘束が解かれた。坂田がニヤリと笑った気がしたが、その顔を直視出来ないほど俺は逆上せていた。解放された手首も急速に熱を持った。