話
□海を渡る
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…気がした。
あまりに非現実的な、けれどそれは今の俺にとってはひどく確かな、契機。
ばしゃり、と海水の飛沫と鼓動が跳ねた。
俺は十四郎の腕をひっつかんで抱き締めようとして、勢い余って一緒に後ろにひっくり返ったのだ。
波は一度ひいて、またやってきて俺の顔を水面下に押しやろうとした。鼻から入った塩水に噎せかえりながら慌てて起き上がる。
痛い上に格好悪すぎる、いくら早まった罰にしたって悪質だ。
ただ寄せ返す、意思のないはずの波に殺意が込み上げた。海さえなければこんなことにはならなかったのに、とついまた責任転嫁をしてしまう。
十四郎は呆気に取られた顔で、俺の両腿の上に跨るようにして膝立ちになっていた。
前髪から滴が落ちて、顔も濡れてしまっていて、その上俺と目を合わせた途端に憎々しげな表情を浮かべたものだから…。
ヤバい、欲情しそう。
なんて、余計な興奮に駆られた。みっともなく咳こみながら。
「何しやがんだテメー!俺ァ楽しめつったがこんな悪ふざけしろとは言ってねーぞ!」
びしょ濡れになっていた胸元を掴まれ、引き寄せられる。
収まりかけていた咳がまた盛大に出かけて、俺は咄嗟に背けた顔を思いきりしかめながらなんとか耐えた。
どうやら十四郎は俺が抱き締めようとして引き寄せたことには気づかなかったらしい。そりゃそうだろう、なにせ手際が悪すぎた。
怒り心頭といった様子で睨みつけてくる十四郎にホールドアップで反省と無抵抗の意思を示すが、まだ謝罪の声を出せずにいる俺を十四郎は離そうとしなかった。
Tシャツの首周りが伸びきっている。これもお気に入りだったんだけど…。
なにせ俺は念願だった十四郎との海デート(あくまで俺的に)に完全武装で臨んでいたのだ。そして、概ねダメにしてしまった。
…ホント、何やってんだ俺。考えてみればジーンズの尻ポケットに突っ込んである携帯と財布も水浸しだろう。救いようがない。
勢いのある大波がやってきて、鳩尾のあたりに当たって砕けた。
何もかもが、俺をヤケクソにするために用意されているような気がした。
「何とか言いやがれ馬鹿銀!」
そんなに聞きたいなら、言ってやるよ。
自然と口角があがった。
抑え込んでいた苦しみを一つの咳で吐き出して、それから十四郎の顔を見据えた。
「……好きなんだよコノヤロー」
出し切った息を吸うとあまりに強く潮が香って、何が何だかわからなくなった。非常によくないことをしでかした気がした。
頭の隅で警報が鳴っている。けれど、それは段々と強くなって打ち寄せる波の音に紛れ、かき消されてしまう。
「…え?」
「どうせ気付いてたんだろ?で、オメーは知らない振りして友達のままでいたんだろーが。何でだよ…気持ち悪ィだろ?はっきり言わねー俺のこと情けない卑怯者だって思ってたんだろ?」
困惑顔の十四郎に溢れ出るがままの言葉を投げつけた。傷つけるだとか傷つくだとか、そんな考えは一瞬も浮かばず、ただ何かの力に押し流されていくだけだった。
もう戻れやしない。蹴り上げた靴、伸びきったシャツ、水没した携帯、吐き捨てた言葉。そして俺もコイツも。
寄せ返し、増えては減る波。海の営みの中で、人は何故こんなにも脆いのだろう。
表情を失った十四郎が俺から手を離し、水を滴らせながら立ち上がった。
見上げることが出来ず俯いた俺は、腰の上まで浸すようになった波の動きを見ていた。体を持ち上げるほどではないものの、不思議な浮遊感がある。このまま座っていればいずれ俺はどこかへと流されていくだろう。
それでもいいと思った。戻れないならば、いっそのこと。
頭頂部に軽い衝撃があって、つい顔を上げてしまった。
俺に手のひらを差し出した十四郎は、少しだけ口の端を上げている。
呆れ返っているのだろうとしか思えなくて、今言った全てを無かったことにしてくれと乞いたくなった。
けれどみっともない行為をこれ以上重ねるくらいならば、今すぐ波に溶けるか砕け散って砂粒になるかして、十四郎の前から消えてしまいたいとも思った。
緊張のあまり乾いた口の中を舌で舐ると、喉の奥はひりひりとして苦いともしょっぱいとも言えない味がした。これが後悔の味なのだろうか。
「立ちやがれ。帰んぞ」
「…一人で帰れよ」
「ったく。俺の気持ち勝手に決め付けて被害者ぶって、それで自殺でもする気かよ。いいから立て」
そう言われて単純にも少し希望を持った俺は、あっさりと目の前の十四郎の手を取った。
水分を吸いきったジーンズの重さも、海原へと連れ込もうとする波も、十四郎が俺を引き寄せる力には及ばない。
そして砂浜と上の道路を繋ぐコンクリートの階段へと、俺は生還するに至ったのだった。