話
□夜半珍事
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「こういうこともあるんだな」と思った。
「え?」
思考は口から洩れていたらしい。
普段はあまり出てこない土方の独り言に、机を並べて書類を処理していた山崎が怪訝そうな声をあげた。
夢中でペンを走らせているらしく顔を上げてこちらを見やりはしなかったが、確実に集中が削れてしまったのだろう。どこか書き間違えたのか訂正印を探して左手が机上をさ迷った。
「ほらよ」
山崎の求めるものは自分の机に乗っていたので、それを取って隣に投げて寄越した。
山崎は「すんません」と呟いて分厚い辞書を下敷きに判子をゆっくりと押し付ける。
それを見届けて土方は再び自分の書類作成に戻ろうとしたのだが、それより山崎が顔を上げる方が早かった。
一瞬俯けた視線の端に疲れた山崎の顔が写り、注意を呼んだのは自分なので無視をするわけにもいかず、顔を見合わせた。
「どうかしました?」
疲労感を隠しもせずに山崎は少しだけ首を傾ける。もう少し角度をつけてしまえば取れてしまうのではないかと思えた。それくらい生気がない。
しかしおそらく山崎から見た土方もそんな顔をしているだろう。朝から書類作成を始め、昼飯を食べた以降はろくに休憩もせず仕事を進めていたのだから。
立ち上がるのは用を足しに行くときか、紫煙に満ちた部屋を換気するときくらいだけだった。疲労感が見えないほうが異常なのだ。
とはいえ、ここまで根を詰めて仕事をしなければならない状態がそもそも異常である。
土方は溜め息を一つついた。長時間握り締めていたペンを転がし、伸びをしながら先の質問に答える。
「なんつーか、別にいいかと思った」
「別にいい?なにがです??」
土方の返答にますます疑問は深まったらしく、山崎の首は更に傾きを増した。これ以上はもう重力に負けて落下してしまうのではないか。
落ちた首を慌てて広い上げる山崎を思い浮かべ、土方は一人で小さく声を出して笑ってしまう。
その様子を余程おかしなものと捉えたのであろう。山崎は心配そうな顔でなかなか笑い止まない土方を眺めていた。
日頃の土方は声をあげて笑うことなどないのだ。疲労のあまり気が違ったのかと思われても不思議はない。
「もう今日はここいらで終わりにしましょうか…?副長も大分お疲れのようですし」
なんとか妄想を頭から追いやり、息を整えた土方に山崎がそう声を掛けてきた。
1日頑張ってきた甲斐あって、未記入の書類の束は大分薄くなっていた。深夜まで二人でやれば終わる量だ。
山崎にも土方にも明日からは外でこなさなければならない仕事が待っているが、少しくらい持ち越しても問題はない。
しかしこれを片付けずに休むのは寝苦しそうなので避けたかった。終わらないとしても気絶するまでやっておきたい。
「いや、俺はもう少しやる。お前は寝てもいいぞ」
すっかりいつもの表情を取り戻した土方は、そう言ってまた書類に向かった。
副長が仕事を続けると言うのを無理やり止めるわけにも、ましてや自分だけ先に終わるわけにもいかないのだろう。山崎も同じように残った書類を片付けにかかった。
「あー終わったー!」
「お疲れさん」
全て書き終えた書類を机の真ん中に揃えて置き、山崎は深夜だと言うのに大声を出して後ろに倒れこんだ。
それを横目で見て少し口角を上げ、土方は咎めもせず労いの言葉をかける。くわえていた煙草を、吸い殻で盛り上がった灰皿に無理やり押し込めた。
自分も大きな声を出してこの長時間の疲労を発散させたかったが、いくら副長室が他の隊士たちの部屋からは離れてるとはいえ立場上はばかられる。
近くに部屋のある近藤や沖田が目を覚まさないという保証もないのだ。あの二人に限ってそんな繊細さはないとは思うが、念のため。
明日からの激務に備えて眠る二人を起こしたくはない。
土方は無言で首を左右に曲げて鳴らし、肩を何度か回してから山崎の横に寝転がった。
久方ぶりに見上げた気のする天井は、自身の吐いた紫煙で霞んで見える。喫煙者である自分はまだ良いが、山崎は随分辛い思いをしただろう。
換気をしようかと思うが、一度気を抜いてしまった体を立ち上がらせるのは困難だった。
視線だけを動かして壁時計を確認すると1時を回ったところである。
夕飯を抜いていたので空腹感があった。台所に行けば二人分の食事が残されているはずだが、そこまで行く気力などもちろんない。
「あの、副長」
「なんだ?」
大分疲労を含んではいるが、仕事をやりきった高揚感からか山崎の声は弾んでいた。
応じる土方の声も普段の硬さはなく、力の抜けたものになっている。副長室内の雰囲気は珍しく柔らかい。
仰向けになっていた山崎が姿勢を変え、土方の側を向いた。土方もそれに併せて少しだけ体の向きを直す。
「結局あの独り言は何だったんです?」
「あ?なんだっけか?」
「こういうこともあるんだな、ってやつですよ!なんか俺、気になって気になってあの後ミス連発しちまいました」