□待ちぼうけは此処で
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足繁く通い続けた理科準備室で、物分かりが良くて話しやすい生徒を演じ続けて約一年。卒業の日までは半年を切っていた。

晴れて生徒と教師という枠が取っ払われた後に、堂々とこの想いを告げる気でいたのだ。

同棲していた彼女に逃げられ「暫くは恋愛する気になれねーわー」と言って落ち込んでいた彼を、親身になって励ましたのは自分だった。きっと卒業するまで彼はフリーのままだろうし、告白はうまくいくだろうという自信があった。
けれどそこに根拠なんてものはなかった。
穏やかで心の通う時間を過ごしながらも、互いの間には微かな恋愛の兆しもなかった。もちろん自分は必死で表に出ないようにしていたわけだが。
だから裏切られただなんて思うのは、ましてや彼を嘘つきと責めるのは、筋違いなのだ。
たとえ夏休みが明けて久し振りに会えた彼に、いつの間にやら彼女が出来ていたとしても…。




準備室の薄暗さや染み付いた煙草の匂いを懐かしみ、何より1ヶ月半ぶりに目にする白衣姿に喜びが溢れたのも束の間だった。

「実はさァ、彼女が出来たんだよねー」

作りたてのインスタントコーヒーが入ったマグカップをパイプ椅子に座る土方に手渡し、その傍らに立ったまま銀八は言った。

少し冷まそうと両手でマグカップを持って漆黒の液体に息を吹きかけようとした土方は、その言葉の意味を理解することが出来なかった。否、理解しようとはしなかったのだ。

焦点の合わなくなった目に銀色の光が僅かに映る。

銀と黒の、色違いでお揃いのマグカップは土方がクリスマスプレゼントとして渡したものだった。
「いつも紙コップなんてエコじゃねーだろ」照れ隠しにそう言って渡すと、銀八は笑いながら「お前ってホントに真面目なー」と土方をからかって、けれどすぐにその真新しい対の容れ物に熱い液体を注いでくれたのだ。

銀八は用意していなかったプレゼントの代わりに、冬休みが明けて登校してきた土方にお年玉と称してマヨネーズを一本くれた。
それはどこでも売られているようなただのマヨネーズだったが、土方は銀八にプレゼントを貰えたというだけで天地が逆さになるくらいの喜びを感じた。
今も丁寧に洗った容器が自室の枕の横に置いてある。そんなこと口が裂けても言えやしないけれど。

「ぉーい、土方ァ?」

ぼやけた視界の中で振られる手。土方は目を瞬かせて、それからやっと銀八の顔に焦点を合わせた。
苦笑しながら銀八は自分の机にマグカップを置き、椅子を引いて土方の前に座る。
年季物の回転椅子が軋んだ音をたてた。

動揺を悟られないようにしなければと、放心を誤魔化すようにまだ熱いブラックコーヒーを口にそっと流し込んだ。舌が一瞬痺れる。火傷をしたかもしれない。

銀八は既にスティックシュガーを三本入れたコーヒーに今度はミルクを加えている。
マジで糖尿病になんぞ、といつものように注意をしてやりたかったが火傷の痛みも手伝って口を開くことが出来ない。

「やっぱ、呆れるよな」

ようやく甘味を足すのに満足したのだろう、銀八はすっかり色の変わったコーヒーを一口飲むと自嘲気味に問い掛けた。

土方の放心と沈黙を、単に驚き呆れたからだと解釈したらしかった。都合は良かったが胸が痛むことには変わりない。
土方は唇を噛んだ。何か気の利いたこと言おうと口を開けば、その前に零れ落ちてしまうものがありそうだった。

「しかも相手はまた教師でさ…バカだよなァ、二度と同業者とは付き合わないって決めてたのに」

「…何があった?」

そう呟くのが精一杯だった。憮然としたような言い方になってしまい、自分の器の小ささに悲しくなった。
俯いて湯気のたつコーヒーを見つめると、明らかに落胆した男の顔が小さな漣の中に映っている。僅かに手が震えているのだ。もう胸の内を隠しきれそうにはない。
けれど、恐る恐る上目遣いに見やった銀八は土方の異変を不審なものとは考えていないようだった。

「あー…ほら、幼なじみで教師やってる坂本って奴のこと話したことあるだろ?」

「おう…」

「あいつが気ィ利かせたのか自分がやりたかったのか夏休み入ってすぐ合コン開いてさ、そこでなんか酔った勢いで意気投合した子がいて…なんか、そのまま…?」

「そのままって…なんか、適当だな…」

決まり悪げに銀八が頬を掻く。
土方は棘のある言い方をしてしまったことにまた落ち込んだ。こうなるともう無限ループだ。聞きたくない話を聞いてしたくない反応をして、ただただ底に向かって落ちていく。救いがない。

けれど、と心中で呟き、火傷した舌に構わずまだ熱を残すコーヒーを飲み込んだ。
こうなったらもうとことんまで行くしかない。

いくら現実が辛いものであろうと、この男がいるのならばそこが自分の世界だ。目を、逸らすわけにはいかないのだ。

「ちゃんと説明しやがれ」

マグカップを下ろして、はっきりとそう言った。
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