□線知らずの
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「そういやあいつ元気?あのゴリラみたいな奴」

「ゴリラじゃねェ!近藤!!あの人はいつも元気だよ」

出来上がった二人分のコーヒーをデスクに置いて、土方は少し憮然とした表情を浮かべた。

たとえ軽くだろうと、近藤を馬鹿にするような事を言えば土方はすぐにムキになって反論をする。土方にとって近藤は、発作で辛いときに助けてくれた命の恩人らしい。
たしかに教室からここまで土方を走って運ぶのは楽なことではなかったろう。自分だったら途中でへばってしまうに違いない。

対して、保険医である坂田はどうやらそれほど感謝されていないらしかった。
だって近藤に比べて自分の扱いは酷いの一言なのだから。敬意というものがまるで感じられない。

たしかにろくな処置はしてやれなかった。薬を飲むための水をコップに注いで渡してやり、背中を擦ったたけだ。
それでも土方の休むベッドを毎朝綺麗に整えていたのは自分だし、出来る限りのことをしてきたのに。そう恩着せがましくも考えてしまう。
さすがに大人げないので口にはしないが。

部屋の隅で短い電子音が鳴った。坂田は溜め息をついて立ち上がり、加湿器の給水をしに向かう。
その背中に、なァと土方から声がかかった。

「そろそろ返事くれよ」

「え?あー…だからさ、お前は大人をからかうんじゃねェっての」

振り向きもせずに坂田は答えた。一度加湿器の電源をオフにし、蓋を開けて空に近くなった水筒部分を取り出して戻ってくる。
その間、土方の顔を見ないようにしていた。

自分にいなされた時の土方の顔は、正直見るに堪えない。捨てられた子供のような悲壮な表情を浮かべるものだから、つい情に流されてしまいそうになるのだ。

今回はどうやって切り抜けようか。考えているうちに容器に水が貯まっていく。

半月ほど前、好きだと言われた。
どうにか傷つけずに断ろうとしたが、うまい言葉が見つからずお茶を濁し続けてきた。
いいかげん誤魔化すのも限界だろうとは思っていた。しかし万事が円満に収まりそうな言葉は未だに見つからない。

幾つか当たり障りない言葉を思い付く。今日もなんとか切り抜けてしまおうか。

そんなことを上の空で思う坂田の眼前に、唐突に土方の顔が現れた。

母親に縋りつくような、不安気な幼い顔。白い肌に、赤い唇、鋭さの消えた潤んだ瞳…。
アイフルのチワワなど目ではない。こんな顔した子を放っておくなんて、とてつもない罪悪なのではないかと思わされてしまう。

ほんの一瞬だけ、全部放棄して抱きしめてしまおうかと考えた。

しかしこれは愛情ではない。断じて、ない。母性本能のようなものだ。そして即、血迷った考えを頭から消し去った。
容器から水が溢れている。水道の蛇口を捻って止めた。

そもそも、有り得ない。土方は男で坂田も間違いなく男だ。その上土方は生徒で、坂田は保険医といえど一応は教師なのだ。
坂田はこれまでの人生で男を好きになったことは一度もない。
何度も女性に振られてきたが、どんなに傷ついても男に乗り換えるなど夢にも思ったことはなかった。そんな自分にどうして土方への恋愛感情など生まれようか。

かと言って、完全に土方の想いを切り捨てることも出来なかった。
一時の気の迷いというのをこの年頃の子供はよく起こす。それを経験上知っていたから、無闇に傷つけず、うまいことあしらって飽きるのを待とうと思っていた。
それを出来るが大人の狡いところで、けれど優しさなのだと坂田は考えていた。

しかし、最近少し事情が変わってきた。土方が実力行使に出始めたのだ。

今だって顔が異様に近い。体に至っては近いとかいう問題ではなく、土方は坂田に腕を回して完全に引っ付いている。
こんなところに他の生徒が入ってきたらどうするのか。放課後は部活動で怪我をした生徒が訪れることも少なくないのだ。

「土方…ちょっと…」

「気にすんな、ドアの鍵は掛けといたからよ」

「だからそれ職務放棄だからァァァ!」

慌てて土方の体を引き離し、白衣の裾を靡かせながら坂田は小走りにドアへ向かった。
自分は保険医の仕事を愛し、真面目に勤めているのだ。健康な生徒といちゃつくために本当に保健室を必要としている生徒を拒むなど出来るわけがない。
土方もそれは知っているはずなのだが。

「好きなんだよ!」

好きなら困らせんな!そう心中で叫びながら、密室を本来あるべき保健室の姿に戻す。
そのまま出て行ってしまいたい気持ちだったが、それこそ職務放棄なので自制した。
しかし土方がどんな顔をしているのだろうかと考えると振り向くことも出来ない。ドアの鍵に指を添えたままの状態で、坂田の動きは止まってしまった。

「せんせぇ」

まただ。どうしてそんな風に呼ぶんだ。

母性でも罪悪感でもない打算が、坂田の胸中で渦を巻き始める。
口では文句を言いつつも、坂田は土方が懐いてくれるのが嬉しかった。離れていかれれば、きっと寂しくなるだろう。
今ここで土方を抱き締めて、満足のいくような言葉を与えてあしらって、それで済むならそうしてしまいたいと思った。

けれど、理性が坂田の体を動かさない。そんなその場しのぎで済むことではないとわかっていた。
そして今後土方と二人で危ない橋を渡って行く気には、いくら一時の間であるにしても、なれなかった。
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