□やわらかいほほ
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ぱしんというオートマティックに出た音に続いて、打たれた左頬は熱をもった。

「私はそんなふうに育てた覚えはないわよ!」

俺もこんなふうに育てられたって覚えはないんですがね。でもなっちまったもんは仕方がねーんでさァ。年の功パワーかなんかで諦めてくれよマザー。





「さっみー…」

赤くなっているであろう頬に冬の風が心地よい。
回れ右をして今出てきたばかりのドアに向き直る。木製のくたびれた一枚板に蹴りをいれた。けれどくたびれているくせにびくともしやしない。
一睨み効かせた。また回れ右をやり直して、ずり落ちたショルダーバッグをかけ直す。

さて、家出だ。

いくら寒さが厳しかろうと、不景気だなんだと騒がれていようと、俺は一人の力で生き抜いてみせる。
強い決意を夜空の星に誓い、歩き出した。





ぴんぽんとチャイム音は軽快に鳴った。我ながらいい音を出せたもんだ。

「お前、矛盾って言葉知ってるか?」

「俺の辞書にそんな言葉は見当たりやせんね」

「凍え死ね」

「ひでぇよ土方」

徒歩五分圏内にあるこじんまりとしたアパートの一室、その玄関口に俺は立っていた。

真向かいに立つ土方さんに事情を話した結果が上の会話だ。これに野良犬を追い払うような顔と仕草がついている。ひどい対応をするもんだ。ガラスハートが少し傷付いた。

「早く入れてくだせェ。寒い」

「帰れよ」

「家出してきたんですってば」

「そういやそうだったな」

後ろから吹いてきた風の冷たさを首をすくめて耐える。土方さんも寒そうに顔をゆがめ、パーカーのポケットに両手をつっこんでいた。

「駄目なら、家の前で寝やす」

「…あほか」

駄目押しの一言が効いて、土方さんが招き入れるように体を入り口正面からずらした。滑り込むようにそのスペースに入り込んで、薄いドアを閉める。

「相変わらず殺風景な部屋ですねィ」

「文句あんなら帰れ」

「褒めてんでさァ」

短い廊下を進んだ先にある六畳間には、ベッドと小さなテーブル以外に家具類はなにもない。テレビもパソコンも本棚もないのだ。いつ来ても高校生らしからぬ部屋だと思う。

もちろんポスターだとか写真だとかの飾りも皆無だ。目につくものと言えばテーブルの上に広げられた勉強道具、部屋の隅に置いてある鞄、そして壁に立て掛けてある竹刀だけだった。

一通りぼんやりと眺めた後、その場にショルダーバッグを脱ぐようにして落とした。家出用に色々と詰め込んできたから、なかなか重量感のあるロックな音が鳴った。

「デケー音たてんな」

「土方さん、コーヒーで」

「当たり前のように注文すんじゃねーよ」

そう文句を言いながらも、土方さんはキッチン(と呼ぶには小さすぎる場所だ)へと向かった。なんだかんだこの人は甘いのだ。

勝手知ったる家なので特に断りもせず、部屋の奥のクローゼットを開いて空いているハンガーにコート掛ける。やはり中にも大して物は入っていなかった。
ただ唯一増えていたのが、この間のクリスマスパーティで俺が渡した木彫りの熊だ。しまっといたら意味がないので、勝手に取り出して枕元に放り投げておく。

ついでにベッドの下に置いてある俺専用の座布団を引きずり出した。いつも通り埃一つついていない。勉強で忙しかろうとなんだろうと、毎日掃除をする習慣はなくなることがないらしい。

「せめて受験終わってから家出してこいよ」

土方さんがマグカップを二つ持ってきて言った。適当に教科書やらシャーペンやらを床に置き、テーブルの上を空ける。

「俺のせいじゃないんでさァ」

手渡された俺専用のマグカップに息を吹きかける。余計なものはなにもない、この部屋のようなブラックコーヒーだ。最近ようやく舌が慣れ、味わって飲めるようになってきた。

「何があったんだよ」

「言っちまいました」

真向かいに座ってマグカップに口をつけていた土方さんが、固まった。

「まさか…お前…」

「恋人が男だってカミングアウトしたんでさァ」

「ま、まだ付き合ってねーだろうが!」

音をたてて土方さんがマグカップを置いた。中のコーヒーが少し飛び散ってテーブルに斑点を形作る。

土方さんはすぐに立ち上がり、布巾を持ってきて汚れを拭き去った。顔は固まっているものの、筋金入りの綺麗好きなだけあって動きはスムーズだ。俺は黙ってその姿を眺めていた。
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