□夏の夢の儚いこと
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クーラーの調子が悪い。朝から付けっぱなしにしているのだが、昼前になっても一向に涼しくなる気配がない。むしろ外の気温が上がるのに比例して、室内は着実に暑くなっていた。

拭っても拭っても汗が滲んでくる。苛立って乱暴に顔を擦る、その手が止められた。

「傷ついちまうだろォが」

「こんなんでつくかよ」

煙草の煙を宙に散らしてから、俺の膝を枕にして寝転がる高杉を見下ろす。何故か汗一つかいていないその顔は、ニヤニヤしていて楽しそうだ。
とても敵方の本拠地にいるとは思えない。呑気なものだ。片手に扇子を持ち仰ぎながら、何故か掴んだ俺の手の先を舐めている。

刀は互いに手元にはない。手の届く場所に在るのは、それぞれの肉体と幾つかの小道具だけだ。
何かが間違っているのはわかっている。受け入れている俺が一番問題なのだということも。

こんなところ誰かに見られたら、どう弁明しようと無事では済むまい。当たり前だ、立派な裏切り行為だ。俺だったらばっさり斬り捨てる。

だから常に部屋の外へと神経を向けていた。誰かが近付く気配があれば、すぐにこいつを押入にぶちこむつもりだった。
今まで不思議とそんな事態に陥ったことはないが、油断は出来ない。

時間の推移に伴って着実に脳に疲れが溜まっていく。更に理不尽な暑さや鳴きやまない蝉の声が、俺の疲労に拍車をかけていた。しなくてもいい苦労を、俺はしている。折角の休みに。

「お前のせいで修理も呼べやしねぇ」

ぽそりと恨み言を吐く。高杉は喉で笑って、扇子の風を俺に向けた。
子供騙しのような、それでも壊れたクーラーよりは幾分か涼しい風が首筋にあたる。

「それでもお前は俺を追い出さねェなァ」

歌うような軽い調子で高杉は言った。そして俺の指を親指から一本ずつ咥え、順番に舌先で弄ぶ。温かく柔らかい舌の感触は、正直言って嫌いじゃない。
口にすればエスカレートしそうだから、黙って高杉の行為を眺めていた。

閉めきった障子戸の外では、いつまでも蝉がミンミンと喧しい。夏も終わりに近づいて随分聞きなれはしたものの、やはりうるさいことには変わりがない。
暑さによる苛立ちも手伝って、一太刀のもとに斬り捨てたいような気持ちになる。しかし、ただでさえ短い蝉の寿命を縮めてしまうのも気がとがめた。

「あと一週間しか生きられねーなら、お前は何をする?」

なんとはなしにそう訊ねると、高杉は俺の指を解放して口の端をあげた。扇子の風も、一旦止んだ。

「一週間も確約された命があるなんて、ありがてェ話だな」

「…それもそうだな」

30秒後にでも、斬られかねない俺達だ。そうでなくても互いに、死と生の混沌とした世界に立っているのだから。そんなことわかりきっているはずなのに。

馬鹿げた問いを口にしてしまったのはきっと、神経を磨り減らしているせいだ。まだ死にたくないと、抵抗しているからだ。

明日も、その明日も、また次の日も、いつまでだって。

お前といたい。お前と生きていたい。

そんな馬鹿げたことを思う。

まだ唾液の乾ききらない手を、高杉の額にあてる。包帯のさらりとした手触りと、その下の肉体から伝わる僅かな体温を感じる。

外では蝉が一層力強く羽音を鳴らしている。

「一週間お前と過ごして、それから死ぬのも悪くねェかもなァ」

不穏な笑みを浮かべて、高杉はまた俺の手を掴んだ。

「拐っちまうか」

どきりと、心臓が鳴った。

握られた手は動かない。

汗が止まらない。

蝉の鳴き声が止んだ。

外に人の気配はなかった。

「…お前が、大人しく死ぬような奴かよ」

冗談まじりに、会話の核心をずらす。拐われてしまいたいと、一瞬でも思ったことを打ち消すように。

そんな俺の胸中を悟ったような顔をして、高杉は俺の手を握る力を強めた。

「蝉は実際は一ヶ月近く生きるんだそうだ」

「え?そうなのか?」

高杉は頷く代わりに、手の甲に口付けた。そして隻眼で真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。

「お前を手にいれて、簡単に死んじまうのも勿体ねェ」

そう言うのと同時に、突然高杉は俺の手を離して立ち上がった。言葉を返すことも忘れ、追いかけるようにその顔を見上げる。
少しばかり真面目になった顔が、俺を見下ろしていた。僅かな時間、静かな熱い空気の中で、いつ失われるとも知れない視線を交わらせる。

「せいぜい、しぶとく生きるさ」

派手な着物が翻った。無造作に床に置いていた刀を拾い上げて、高杉は障子戸を開いた。

別れの言葉を言い合うこともなく、高杉は出て行き、俺はその背を見送った。
残暑の熱気が部屋に入り込み、また汗の量が増える。

いたことの痕跡を俺の片手にしか残さず、高杉はすっかり居なくなった。特に騒ぐ声も聞こえない。うまいこと出て行ったのだろう。
安心する反面、もう少し警備を強化するべきかとも思った。それでもあいつはニヤニヤしながらやって来るに違いない。そんな不確かな確信がある。




煙草に火をつけて、生殺しのような暑さの中を暫く一人ぼんやりとしていた。

「トシー、スイカ食わんかー?」

大きな足音をたてながら近藤さんがやってくる。煙草を灰皿に擦り付けてそれを迎えた。

「暑いな、クーラーつけてないのか?」

「壊れたみてーだ、業者呼ぶわ」

近藤さんの後ろでは、また蝉がやかましく鳴き出した。玉になって沸き出す汗をごしごしと拭って、俺は 立ち上がった。






短編集BL

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