話2
□親和と崩壊
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お前が俺だけを愛し、俺がお前だけを愛し、それだけで完結していた世界は、一体何時終わってしまったのだろう。
あぁ願わくばもう一度、奪うように強く、この名を呼んでくれ。
大きく息を吸い込もうとしたらしく、その開かれた口は壊れた笛のような耳障りな音を洩らした。充血した両の瞳の端からは涙が零れ出ている。
俺の手を外そうとしているのか、白い指の先で引っ掻いてくるが大した痛みはなかった。十本全てが見事に深爪だからちっとも効きやしないのだ。中途半端に潔癖だからこんなことになる。
己の罪を認めながら生へ執着するその姿は、なんとも情けなく見苦しかった。かつてのこの男からは想像もつかない醜態。
こいつは化け物に騙され、変わってしまった。もう俺だけを慕い、俺の為だけに存在していた男ではない。あの凛とした美しさは汚泥にまみれてしまった。
早く消し去りたくて、手にかかる力を強める。いっそもう、へし折ってしまおうか。
俺を呼ばない喉ならいらない。
「苦しいか、トシ。でもなぁ、お前が悪いんだぞ?」
「…こ、んど…さ、ん」
空気もまともに通らぬほど締め付けた喉が、俺の名を絞り出すように鳴らした。そうだ、それでいい。許しを与えるように、少し力を緩めてやる。
「間違いなら誰でもするさ。でもこれで、あいつと行くなんて気は失せただろう?」
片手を喉から離し、赤く染まった頬を優しく撫でてやった。濡れた眦に指先を伸ばし、涙を拭う。トシは荒い息を繰り返しながら、俺をじっと見つめていた。何か言おうとしている。
「ん?」
「もう…ダメなんだ…」
笑みを浮かべるように歪んだトシの薄い唇。俺を突き抜けたどこか遠くを見るような目に、光が宿った。
「何…がっ…」
問いかけは、突然背中に走った衝撃によってかき消された。中心に杭を打たれたような感覚。一瞬何が起こったかわからず、しかし答えを明かされなくても自ずと知ることは出来た。
「あんまり遅ェから迎えに来た」
「晋助」
その甘い呼び声は、俺に向けられるものだったはず。その嬉々として輝く瞳は、俺を見るものだったはず。
熱い、燃えるような痛み。俺はこの痛みを知っている。幾百回となく、大義のもとで他人に与えてきた。トシと一緒に。ずっと、俺達は一緒だった。
それが、何故、こうなった?
心臓が理解を越えた早さで動いている。雨に濡れたかのような汗が全身に浮かんだ。うずくまってもがきたいと体が訴えるが、着物の後ろ襟を掴まれているせいで叶わなかった。
トシの冷たい手が俺の濡れた手に触れて、一瞬、期待をした。俺が生命の危機に直面したことで、かつての心が戻ってきたのではないかと。
しかしトシは握った手を放るように退けた。始めから俺など居なかったかのような自然さで、ゆるりと立ち上がる。その間ちらりとも俺を見ることはなかった。最後に視界に残った白い足の甲も、すぐに俺の前から消えてしまった。
「殺しとくか?」
「そうだな」
背中に突き刺さった刃を玩ぶように動かされ、あまりの痛みに吐き気をおぼえる。
「ぁ…ト、シ…」
せめて呼んでくれ。もう一度だけ、
「悪ィなァ、局長さん」
願いは、叶わなかった。
終
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