話3

□失墜と楽園
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ぴちゃり、ぴちゃりと、水気を帯びた微かな音が聞こえる。
障子戸を隔てた廊下に立ち、河上は入ってもよいものか逡巡した。なにかあまり見たくないことが行われている気がする。研ぎ澄まされた聴覚がそんな警告を脳に与えていた。
しかし呼ばれているのだから、無視をすることも出来ない。そもそも電話の声からして不穏だったのだ。あの時に断るべきだった。

「入れよ」

気配に気づいていたらしく、高杉に声で招かれた。諦めて障子戸に手を掛け横に開き、後ろ手に静かに閉める。閉めてから、開けとけば良かったと後悔した。

ぴちゃりという水音は河上が入ってからも途切れることなく続いていた。
それは、高杉の足を土方が舐める音だった。

「…お邪魔でござったか?」

「いいや?」

嫌味は軽く受け流された。こちらとすれば邪魔だと言ってほしかった。これはもう見せつけたくて呼んだのではないかとすら思わされる。

高杉は座布団に胡座をかき、その裾から出た足を蹲った土方が舐めまわしている。河上の位置からだと、性的な行為に耽っているように見えなくもなかった。

あのかつての鬼の副長が、何をやっているのだろうか。俄には信じられない光景だが、どうやら嫌々やらされているというわけでもなさそうで、ミルクを飲む子猫のような、嬉しさと必死さの混じりあった表情が立ち竦む万斉にも垣間見えた。

それだけで充分異常な光景なのだが、土方の格好が妙だ。
濃い赤色の、滑らかな光沢のある布を体に掛けている。余った布の端が畳に折り重なっているが、隠れているのは胴体だけで白い腕や脚などは剥き出しだった。その赤と白のコントラストが血と死肉のようで、少し河上の心をざわつかせる。

他には何も身に付けていないのだろう。下手をすれば尻などの際どい部分が見えてしまいそうなのだが、土方はそんなことお構いなしに相変わらず水音をたて続けていた。河上の存在にすら気付いていないのかもしれない。

「なにか、拙者に用なのでござろう?」

さっさとこの奇妙な状況から抜け出したくて自ら切り出す。
高杉はそんな河上の気持ちを弄んでか、勿体ぶるように手にしていた煙管に口をつけた。

深い呼吸の間、河上はサングラスの内側で目を伏せる。長く見ていれば精神を食まれそうな気がした。あれは本当に、あの土方なのだろうか。他人の空似だと言われた方が信憑性がある気がする。

「真選組が向かって来てるらしい」

「副長奪還、でござるか?」

「さあなァ。あちらさんの思惑なんざどうだって構わねェよ。潰してこい」

「いいんでござるか?」

それは土方への問い掛けだったが、答えはなかった。単調な水音だけが、土方の発する全てだった。

「十四郎、もういい。顔あげろ」

「ん…」

土方が言葉に従って上体を起こす。するりという音もなく、赤い布が体を滑り落ちて床に広がった。



 
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