話3
□ぼくは名前を呼ばれたい
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厚い雲の向こうには、満ち欠けの進行に狂いが無い限り満月が浮かんでいるはずだ。しかしおそらくは地上に姿を見せぬまま、月は静かに地平線へと沈んでいくのだろう。夜更けには雨が降るというのが今夜の予報だ。湿気を含んだ風の匂いがその確かさを証明している。
冷たく湿った縁側を歩くと、裸足の裏が小さくぺたぺたと音を鳴らす。部屋着用の深い碧の着流しは、山崎の体型には少し大きくて若干歩きづらい。買ったときはもう少しマシだったはずだから、体の方が縮んだのだろう。繰り返し行ってきた張り込みのせいだ。あんパンばかりの生活ではやつれるに決まっている。
「ふくちょー入りますよー」
「駄目だ」
「お邪魔しまーす」
中から聞こえてきた返事など完全に無視をして山崎は障子戸を開き、畳の上へと湿ったその足の裏を乗せた。
「許可してねェぞ、切腹するかコラ」
「業務時間外ですし、ここは無礼講ってことで」
「アホか、それは上司が使う言葉だ。寄るな」
「まあまあ、細かいことは気にせず」
大の大人でも怯むような土方の怒気を軽い口調でかわし、山崎はわざと少しだけ戸を開けたまま歩み寄る。
「なんだよ…」
そんな大胆不敵な行動に、怯んだのは土方の方だった。山崎という男はどこか食えないところがあるにしろ、いつだって土方の言葉には忠実に従う者だったはず。それはただの上司と部下という間柄から、恋人という関係になっても変わらなかった。何故急にこんな生意気な態度を取るようになったのか、土方には全く想像がつかない。
昼間はいつも通りだった。山崎は呑気にミントンに興じ、それを見つけた土方がぶん殴る。あの時だって山崎は変わった様子もなく、ぺこぺこと頭を下げながらも大人しく殴られていたではないか。
昨日の晩だってそうだ。偶然廊下で鉢合わせて、周りには人気がなくて、キスをした山崎を土方は反射的にぶん殴った。もちろん山崎は半泣きになりながらも大人しく殴られていたのだ。
それが、何故急にこんな強気?
「今日は、特別」
土方の心を読み取ったかのように、山崎は答えにならない答えを告げた。見たことのない不敵な笑みまで浮かべている。不敵と言うよりむしろ不適かもしれない。こんな顔をするような男ではなかったはずだ。へらへらという擬音がつくようなアホみたいな笑顔。土方はそれしか知らない。
山崎は土方のすぐ傍に膝をついた。着流しに隠された互いの膝が、触れそうなほど近い。
「何のつもりだテメェ」
「恋人に向かってその目はないでしょうに」
睨み付ける土方の目元を山崎は掌で素早く覆い、咄嗟のことに身動きの取れなくなった体を押し倒した。背中を強く打ったせいで土方の息が一瞬止まる。その隙に、山崎は片手で以て土方の両手首を畳に縫いつけた。
「てめっ…ただで済むと思うなよ…」
「呼んでくれませんか?」
「あ?」
「俺の下の名前」
「なんでだよ…」
「いいから。ほら、恥ずかしくないように目は隠しといてあげますから」
「ざけんな、意味わかんねェし!」
「大声出すと、誰か来ちゃいますよ?」
完全には閉ざしていない障子戸から、冷たい夜風が一筋入り込んできている。同じようにして、土方の声も外に漏れていくかもしれない。こんな、普段殴っているような部下に組み敷かれている姿など、隊士に見られれば示しがつかないだろう。土方は悔しげに唇を固く閉ざし、今度は力づくで脱しようと暴れ始めた。断固として山崎に従うつもりはないらしい。
乗っかっている山崎を振り落とそうと全身を捩らせ、足をばたつかせる。着流しの裾が捲れあがるが、そんなことを気にする余裕はなかった。単純な力比べでは土方に分があるはずなのに、今回は体勢が不利な上予想外に山崎の抑え込む力が強い。
「たまには恋人っぽくしてくれてもいいじゃないですか」
少し乱れた息を吐きながら、それでも余裕そうに山崎は言う。その手の内で、抵抗を止めた土方が思いきり不機嫌そうに眉を寄せた。それがくすぐったくて山崎は小さく笑いを零す。
「観念しなよ、十四郎」
「…くそが、調子のんな」
「調子になんか乗ってませんよ。あなたには乗ってますけどねー」
「…さがれ」
「駄目です。ちゃんと、呼んでくれないと」
「…退」
観念したように、それでも最後の抵抗だと言わんばかりに憎々しげな小声で、土方は山崎の名を呼んだ。
「はい。なんでしょう?」
目を覆っていた手を外し、山崎は飼い主に褒められた犬のようにへらりと笑う。いつもの笑みだ。しかし従順な表情とは裏腹に、いまだ土方を組み敷いたまま拘束している。
「馬鹿野郎…さっさと戸閉めて来い。寒ィんだよ」
「はーい」
土方の言葉の裏にある意を汲み取れぬ程、山崎は愚かではない。さっさと立ちあがって命令に従う。戸に手をかけ、そこで少しだけ動きを止めた。
相変わらず夜空には厚い雲がかかり、月の姿は欠片も見えない。しかし今宵は間違いなく満月だろう。
背後で衣擦れの音がする。戸をきっちりと閉め、山崎は手を帯にかける。
立ち上がっていた土方が電気を消した。月明かりの届かない室内は真暗闇だ。それでも気配だけで互いを探り当てる。もどかしげに口付けを交わす。動きづらい着流しをさっさと脱ぎ捨て肌を擦りあう。
床も敷かぬ畳の上で、獣のように理性を忘れた二人は重なり合った。
「ぁ、さがる…っ!」
タガが外れたのか、土方が艶やかな声で名前を呼ぶ。
外では予報通り雨が降り始めた。ぱたぱたと室内にも音が入り込んでくる。抑えきれない声を隠してくれることだろう。なんてよく出来た満月の夜。
「ねぇ、もっと呼んで下さい」
無防備に曝け出されて震える土方の首に、山崎は柔らかく噛み付いた。
終
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