話(連載)

□目を剥いて幸せだって言えよ!
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教師の声だけが響く五限の教室で、晋助は頬杖をついて窓の外の止まない雨を眺めていた。
昼休みの間に降り出した雨は音もなく静かに、けれど執拗に降り続いている。あと三十分もすれば授業は終わるが、下校前には止みそうもなかった。
晋助は傘を持ってきていない。久しぶりの登校のために筆記用具やら教科書やらを揃えるのに必死で、天気予報を見る余裕なんてなかったのだ。
しかもそれが家族総出の大騒ぎだったものだから、出掛けていく晋助に注意が出来る者もいなかった。
「午後の降水確率は80%らしいよ」という声を耳にし、登校中の生徒の多くが傘を持っていることに気づいても時すでに遅し。家より学校の方が近い地点まで来ていたので、取りに帰る気にはなれなかったのだった。

やっぱり来るんじゃなかった、と決意を固めて出てきたことを後悔するが何の解決にもならない。

眼帯の下で、左目が痛んだ。
それは急にやってきた低気圧のせいなのか、後悔に眉をしかめたせいなのか、おそらくはどちらも原因の一つなのだろう。
痛みは過去を伴ってやってくる。何度も何度も繰り返し思い出してしまうあの日は、いつまで経っても慣れという逃げ道を自分に与えてはくれない。



HRの後、担任に呼ばれた晋助は職員室を訪れた。
立ち話もなんだから、と促され部屋の片隅にある簡単な応接セットのソファに対面で座る。
担任はまだ教師になって二年目だという若い男だ。きちんとクリーニングをされたスーツに短く揃えられた髪、そして黒縁の眼鏡が生真面目そうな雰囲気を醸し出している。
実際真面目なのだ。融通が効かないと言い換えた方がいいかもしれない。その真面目さが問題になるタイプだと、晋助は教壇に立った彼を初めて見た時から分析していた。

事実、それは既に証明されている。彼は入学早々不登校になった晋助に会いに、毎日のように家を訪れたのだ。
呑気な晋助の母親すら「あの人ちょっとおかしいわよ」と訝しがる程の熱心さで、学校で学ぶことの素晴らしさを説いたり青春を謳歌しないと後悔することになると脅したりしてきた。

生徒を学校に来させることが担任としての重要な仕事だと思っているらしい。「俺だけの問題じゃないから来るだけ無駄」と何度言っても聞く耳を持たなかった。

「いやあ…来てくれて良かったよ」

心底安堵したといった感じで担任が晋助に笑いかける。
晋助もこれで家にこの男がやって来ないのだと思うとほっと一息つきたい気持ちだった。

「十四郎くんはもう大丈夫なのかい?」

「…大分。で、話はなんですか?」

あくまでやんわりと労るような調子で尋ねられたにも関わらず、晋助の胸は不快感にざわめきたった。
それを悟られないように、そしてさっさとこの場から立ち去ろうと決めて無表情で言葉を返す。心中では舌を打った。

あまりにしつこく不登校の理由を聞いてくるのに耐えかねて紹介してしまったのが間違いだった。
母親の陰に隠れて現れた十四郎を見た時、この男の目の色が変わった。気付いたのは晋助だけだろう。
それは間違いなく、軽蔑の眼差しだった。

「彼も早く高校くらい通えるようにならないとねぇ…いい年していつまでも君のお母さんにくっ付いているようじゃ先が思いやられるだろう?」

「そんな話がしたくて呼んだんですか?」

「教師として当然のことを言っているまでだよ。君もこうして登校出来るようになったわけだし、次は彼の番じゃないかな」

話にならない。この男は自分が足繁く通ったから晋助が学校に出て来たのだと思っているのだ。
たしかにある意味でそれは原因の片割れでもある。もうこれ以上家の事情に踏み込んであれこれ言われたくなかった。だからお望み通り登校したまでのこと。
なのにこの男はそれだけでは飽きたらず、次は十四郎を更正させてやろうとでも考えているらしい。
馬鹿な男だ。理想を追い求めるだけならまだしも、自己過信がすぎる。名門大学を成績優秀で卒業したのだと言っていた。教育学・心理学で右に出るものはいなかったとも。けれど、実際教師になるにあたってそれがどれほどの力を持つというのだろうか。少なくとも一人の生徒の心は完全に掴み損ねている。

今すぐにでも机を蹴って帰ってしまいたかった。けれどそれでまた家に面談に来られてはたまらない。もう二度と十四郎に会わせるものか。

「前にも言いましたけど、十四郎はカウンセリングに通ってるし家庭教師もついてるんで大丈夫です。心配しないで下さい」

なるべく丁寧に、かつ断定的に告げる。そして担任が話し出そうとするのを遮り「じゃ、失礼します」と言うと、傍らの鞄をひっつかんで駆けるようにして職員室から出て行った。
それが晋助の限界だった。もともと気の長い方ではない。これでも大分我慢強さを身に付けたのだ。

後ろから自分を呼ぶ声が聞こえたが構わなかった。ほとんど飛び降りる勢いで階段を下り、止まない雨の中を躊躇せずに走って帰った。
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