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□天涯の彼岸花2
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禁忌の扉は開かれる。
一つ、一つ。
また一つ。


その日は全国的に暑い一日だった。蒸せるような熱気が教室中に籠って、生徒達は皆げんなりとしていた。
里中は制服の上に着込んだジャージを脱いでいるし、涼しい顔をしている天城も、僅かに頬が紅潮していた。心なしか、教師の声もやる気が感じられない。
窓を開けても、少しも風は入ってこない。苦し紛れに学生服の前を寛げて、バタバタと扇いでみても、全く効果が無かった。
(暑ぃ…)
じっとりと背中を這う汗が不快で、溜息が出てしまう。こうなってしまっては、もう仕方ない。俺は授業を放棄して、意識を現実から切り離した。
ぼんやりとした視界で、前の席に座る華奢な背中を捉える。三月まで長太郎が座っていた位置に居る始咲は、微動だにせず授業を受けていた。汗一つ、拭う素振りなど見せずに。




「終わったー!」
午前の授業が終わると同時に、俺は昼飯を持って屋上へと飛び出した。里中と天城が一緒に食べようと誘ってくれたが、それを断る。
暑さの為か、気分が冴えない。今は何を喋っても、空回りをしそうだった。フォローをしてくれる長太郎も居ない。きっと優しい彼女達に、不必要な心配を掛けてしまうだろうから。
「涼しい…。生き返ったぜ」
屋上へ出ると、山から吹き込む冷涼な風が満ちていた。日射しはあるものの、閉塞した教室の空気に比べれば、マシな方だ。
尤も、こんな日射しの強い日に屋上で食べようと言う物好きは居ないらしい。貸し切り同然の広い空間が、暑さと退屈な日常を忘れさせてくれるようだった。
今朝購買で買ったパンと飲み物を片手に、適当な場所を探す。風通しの良さそうな日陰を見付け、近付いたが、視界の端に見慣れない物が映った。
「し、さき」
照り付ける太陽の所為で白っぽくなった世界の中で、影に守られるようにして始咲が座っていたのだ。陰影の中で仄白く輝く頬と、だらりと投げ出された足は人形めいた匂いに包まれている。
「…、花村」
薄く開いた唇から、吐息混じりの声が零れる。甘い音をしているのに、冷えてしまった響きが鼓膜を擽り、背筋が震えた。
『始咲に気を付けろ』
そう何度も警鐘を鳴らしたもう一人の自分は、こんな時に限って黙り込んだままだ。近頃ずっと気を張っていたのが堪えたのか、眠りの淵をたゆたっているのだろうか。
「座る?」
「ああ、サンキュ」
涼しい影に座るように促され、そろそろ黒い学生服の背中が焦げそうになっていたので、有り難く誘いを受ける。隣に座っても、始咲は遠くを見詰めているような目をしていて、会話が生まれる気配はない。
けれど、決してその空気は苦でないのだ。長太郎の隣で、ゆっくりと流れる川を無言で見ていた時のことを思い出してしまう。
最初に会った時にも感じたが、始咲の纏う空気は、長太郎に似ていた。里中や天城もそれを薄々感じているのか、他の生徒が遠巻きに見る中で、彼と積極的に関わろうとする姿がよく見られた。
まだ長太郎と別れて、数週間しか経っていないにも関わらず、確実に寂寥感を心に感じている。口には出さないが、こんな時期の転校生を受け入れてしまっている時点で、相当な末期なのかもしれない。
「…、あれ?始咲、昼飯は?」
ぼんやりと空を見ていた始咲が手ぶらであることに、俺は今更ながら気付いた。飲み物すら持っていないようだ。
「昔は沢山食べてたけど、今はお腹空かないんだ…」
どこか寂しそうな笑みを微かに浮かべ、始咲はそう言った。病気を理由に休学していたこともあってか、彼の体は華奢だ。指先まで白く、いっそ痛々しい程だったので、俺は提げていたビニール袋からコロッケパンを出して、始咲に押し付けた。
「食え」
「いや、でも…花村の、」
「いーから食え!」
もう一つ買っておいた唐揚げパンの袋を無造作に開けて、噛り付く。本当は一つだけじゃ放課後まで持たないのは目に見えていたが、今は始咲をどうにかしたかったのだ。
『陽介、ちゃんと食べないと駄目だよ。ただでさえ細いんだから』
かつて長太郎に言われた言葉が、頭の中で蘇った。きっと相棒も、余り食わない俺を見かねたのか、色々世話を焼いてくれた。その気持ちが今、よく解った。
「…有難う」
漸く諦めが付いたのか、始咲が袋を開けてもそもそとパンを食べ始めた。彼が持つと、普通のコロッケパンが大きく見えて、つい笑いが込み上げてしまった。
「何…?」
口の端にソースが付いてると勘違いしたのか、始咲が制服の袖で一生懸命拭っている。
「いや、食べられるだけでいいからな。それと、明日から一緒に昼飯食おうぜ」
それだけを一息に言って、残ったパンを口に押し込む。ぱちぱちと、不思議な色をした目を瞬かせながら、俺を見る始咲はほんの少しだけ頬に血の気が差したようだった。
「いいの?」
「いーんだよ!」
笑い返すと、始咲に纏わり付いていた冬の気配が薄らいだ気がした。ゆっくりと時間は掛かったが、パンを何とか完食した姿は、かつては沢山の人に囲まれていた彼の面影を、僅かに宿していたのだった。


雪解けと共に、綻んだ蕾。
薄く開いた花の色は、まだまだ淡い。


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陽介×キタロー…!?

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