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□逢瀬
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「へい、らっしゃい」
源太は店の木戸が開く音に反射的に振り返って仰天した。
のれんをくぐって店に入って来たのが珍しい客だったからだ。
「えへへ、来ちゃった。ざるそば、食べたくて」
外はよほど暑いのだろう。薄桃色の着物に藤色の帯という出で立ちのお久美は額に汗を浮かべている。
お久美と源太は隣同士の家で育った幼馴染で、他の近所の子供達と転げ回って遊んで育った。
年頃になるとさすがにお久美は泥だらけになって遊ぶ事はしなくなったがそれでも毎日顔を合わせていたし、よく連れだって買い物に出かけたりしていた。
しかし、源太が働き始めると顔を合わせる機会はめっきりと減ってしまった。
幼馴染のお久美。
妹の様にいつも後ろを付いて歩いていたお久美。
評判の小町娘に成長したお久美。
―そんなお久美が来月、遠い街へ輿入れする。
昼時を過ぎて客が少なくなった店の隅の席に座るお久美に冷たい麦茶を出してやる。
お久美は普段、1人で蕎麦屋になんて来ることはない。何かあったのか。
「一人か、随分珍しいな。どうした」
俺の問いにお久美はちょっと口ごもった後、今までに何度も聞いた、何かをお願いする時の声を出した。
「ねぇ、源ちゃん。今日の天神様のお祭りに、連れて行って欲しいの」
店主に頼み込んで、なんとか祭りの始まる前に店を出ることが出来た俺の横でお久美は上機嫌だ。
「こうやって天神様のお祭りに来られるのも今年が最後なんだもの。昔みたいに原ちゃんと一緒に来たかったんだ」
そう。昔は親に連れられてお久美と一緒に来ていた。片方の親が1人だけ子供たちの世話をしておけば、後の3人は落ち着いて家で酒を飲みながら花火見物が出来るって寸法だ。
お久美があんまり出店に気を取られるもんだから、よく迷子になった。
そのたびにべそをかいて源太の手を握り締めていたお久美はもう手の届かないところへ行ってしまう。
人をかき分けて、ぶらぶらと出店を流していく。
人混みを避けるように歩いて、2人は天神様の裏の湖のほとりに出た。
夜風に乗って喧騒と祭り囃子が聞こえてくる。
「少し、休むか」
源太の提案にお久美は黙ってうなずくと湖の岸辺ギリギリのところに屈み、水面を覗き込む。
「月が、きれい」
確かに湖に映った月は水面の動きに合わせて光が散って美しい。
「ねぇ、原ちゃん」
「私の旦那様になる人は、原ちゃんみたいに優しいかしら」
水面を見たままそう言ったお久美の横顔。
その美しさ。
「何を言っているんだよ。俺なんかよりきっとずっと優しいさ」
「…ううん。同じがいいの。私、原ちゃんと同じくらい優しい人のところにお嫁に行きたいって、小さな頃からずっと思ってたの」
そう言って顔を上げたお久美の泣き出しそうな笑顔。
源太は見ていられなくなって水面を見ればそこにもお久美の顔がある。
風が止み、鏡のようになった湖に映る、月に照らされた白い頬。
どうして時は流れてしまうのか。
この一瞬を切り取って、それを懐に抱いて、そのまま消えてしまいたい。源太は強く思った。
「俺も、お久美と同じくらい愛らしい、気の付くお嫁さんに来てもらうのが夢だったよ」
時は流れて何処にたどり着くのだろう。
流れ流れて、またいつか2人を結んでくれることがあるだろうか。
2人の間を再び夜風が吹き抜けて、水面に映る2つの影はキラキラと波間に舞い散った。