高校時代

□高校時代(完結)
1ページ/16ページ


ピクシブにてのみ公開していたお話を、こちらにも掲載いたしました。

高校三年生の翔君のお話です。
※主人公の名前はいい感じに登場しません。

*******








彼の笑った顔が好き。彼の困った顔も好き。彼の無表情も好き。長い前髪に隠れた彼の小さな目玉だって好き。意外と大きな掌に生えた指も、なんならその先に広がる短い爪さえ好き。


「きりーつ、」


がたがたという無機質な音がして教室中の床を古びた椅子の脚が這う。優等生な私は、かったるそうになんてせず、きちんと椅子を引き、きちんと立ち上がり、そしてきちんと椅子の後ろに立つ。


「れーい」


お辞儀をするとき、私はいつも少しだけみんなよりも早めに頭を上げる。そして、右ななめ前で猫背のままぺこっと、かったるそうに頭を下げる彼を見つめるのだ。


「ちゃくせーき」


右手で椅子を引くと、彼はいつもはぁと肩を落としながら椅子に座る。そんなに、現代文の授業が嫌いなのかな。たしか彼は理数系の分野の方が得意だった気がする。文系は嫌いなのかな、でも昨日の生物の授業の前も肩を落として座っていたのに。


「はい。では今日は教科書の68ページを開いてー・・・・夏目漱石「こころ」の続きからだな。」


先生の言葉なんて私の頭にははいらない。私の意識はいつだって彼へと向いているのだから。彼はそっと教科書を開いて、ペラペラページをめくる。


「ええっと・・・56章か、そろそろ佳境だな。誰から読んでもらおうかな。えーっと、今日の日付は7月2日だから、出席番号2番の人・・・あ、青木か。ちょうど一番前の席だな。よし、それなら青木から順に段落ごとで後ろの奴に行くぞー。」


瞬間的に、顔を上げる彼。野球部の青木くんの2つ後ろの席は彼だ。次の次の段落では彼の声が聴ける。嬉しい。ナイス先生。


「んっ、ん゛ん゛っ」


咳払いをする聞きなれた声。そうだ、あてられるとき、いつもやるんだ。そんなに喉弱いのかな。それとも、話す前にやっちゃうの?癖?


「はい。えーっと・・・『私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですがー…』」


坊主頭の青木君は座ったまま、きちんと教科書を両手に持って音読する。青木君の横の席では、友達のミナコがうっとりとした顔でちらっと彼に視線を送っているはずだ。きっと、それ以外にも青木君の声にうっとりとしている子たちは多いだろう。だって、青木君は野球部のエースだし、顔が小っちゃくて八頭身くらいある。制服のワイシャツから透けて見える彼の肩の筋肉はきれいに隆起している。それでも、青木君よりも私の視線は猫背な彼へと注がれてしまう。


「よし。いいぞ、じゃあ次、」


彼の、ひとつ前の席の小川君が読み始める。はやく、次の段落になれ。そうすれば、彼の声が聞こえる。彼の、あの耳ごこちの良い声が。


「『西南戦争の時敵に旗を奪とられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折ってー…』」


私は頬杖をついて、ページを開いて机に置いた教科書に視線を落とすふりをしながら、そっと彼を見る。締め切られた教室の中には、冷房のごうごうという音が鳴り響く。室内をまんべんなく冷やすその風が迂回して、茶色に染められた彼の後頭部の髪を揺らす。


「はい。じゃあ次」


「ん゛っんん゛っ、・・・・『そ、それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。・・・』」


単調な彼の声。でも、好き。やる気のあるようでほんとはやる気のないトーンが、好き。


「『私に乃木さんの死んだ理由がよく解わからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、』」


私は、彼の声に耳をゆだねる。ここちいい。こんなにも良い声なのに。なのに、女の子たちの視線は、彼よりもずうっと背の高い、さわやかな笑顔が良く似合う男の子たちに向けられている。真夏の太陽に照らされて、部活でこんがりと日焼けをした短髪の男の子たちに、注がれる。


それでも私は彼を見つめる。意外とたくましい腕、体つきに似合わず大きな頭。長すぎた前髪。痛んだ毛先。猫背、ゆるく曲げられた足。かかとを踏まずに、きちんと履いている上履き。


「『もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方がたしかかも知れません』」


・・・ああ、≪良い≫なぁ。


しみじみ思う。

窓の外で、セミが鳴く。夏のじめっとした空気の中、私が学校に来る理由。それは、クラスメイトの翔君に会うため。彼がいるから、めんどくさい学校にものこのこやって来るのだ。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ