長編

□黒紅 〜龍の水晶〜
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プロローグ


ズキリ、と胸が痛んだ。
そして『それ』は初めて気がついた。

あぁ、これが胸が痛いということか、と。

肉を切り裂かれたのでもない、体内を侵(おか)す毒がもたらすのでもない、締め付けられるような痛み。
絶えず胸を襲い続けている、苦しさを伴う痛みに、『それ』はどうしていいか分からずにいた。

そしてふと思い出す。

感情などいらないと言っていたのは、あの人。
感情など邪魔なだけだ、と。

言われた時は「感情」という言葉の意味すら知らなかった。

だが今ならば分かる。

この胸を絶えず襲う痛み。
これが「感情」というものなのだろう。

確かに邪魔だと思った。
これさえなかったら、この腕を振り下ろすことができたのに。
痛みが邪魔をする。
絶対であるはずの命令に、痛みが邪魔をして従えない。
振り下ろさなければいけない腕が、震えて動かない。


『それ』はふと頬を伝うものの存在を知る。

伝うものが涙だと認識するまで、わずかに時間を要した。


何故。

何故腕が動かない。
何故涙など流れる。

何故。


分らないことだらけだ、と『それ』は思った。
だが『それ』は解っていた。

黒光りする刃を振り下ろせない理由を。
静かに流れる涙の意味を。

本当に解らないことは、ただ一つだけだった。

「どうして俺があんたを殺さなければならない」

問えばいつでも何でも答えてくれた。
だがこの問いには答えてくれないだろうと、何とはなしに『それ』は思った。
そして予想通り、優しく微笑むその人はついに最後まで答えてくれなかった。


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