君の愛に包まれて眠る
このところ、天宮は疲れていた。アレクセイの元は離れたものの、その紛れもない実力から天宮は依然期待のピアニストとして注目されていた。その影響で取材などを受けることも多くなったが、その間にもピアノの練習は怠ることはないし、学業を疎かにするわけにもいかない――そんな日々が続いた結果、天宮は疲弊しきっていたのだ。
そんな中、今日は久し振りに丸一日休みが取れた。そんな日に彼が招き入れたのは、他でもない、彼が最も思い焦がれた人物、かなでであった。
「いいんですか?せっかくのお休みなのに私がいて」
「せっかくの休みだからこそ君といたいんだよ」
そんな返答に、かなでは少し照れながらも嬉しそうに微笑む。釣られて、天宮も笑う。それだけでも、少し気分が軽くなるような感じがする。こんな時、自分はかなでに、彼女の笑顔に救われているのだと身を持って実感するのだ。そう、こんなふうに、意識が雲のようにふわふわと、はっきりしない――
「――やさん、天宮さん!」
そこで、我に返った。ふと横を見ると、彼女が心配そうな面持ちでこちらを窺っている。――どうやらすっかり上の空だったらしい。
「どうしたんですか?やっぱり無理してるんじゃ」
「いや、大丈夫だよ。それより、何だっけ」
気を取り直して問い返すも、かなでは依然表情を曇らせたまま。――かえって心配させてしまっただろうか。彼女を安心させようと浮かべた笑みも苦笑いへと変わってしまった。
しかし、天宮が懸念しているのも束の間、彼女は何か思いついたように表情を一変し、一つの提案をしてきたのだ。
「天宮さん、何か私にできることはありませんか?」
「君に?」
ええ、と頷くかなで。その瞳は何かやる気に満ちているというか、妙に気合いが入っているというか、どこかキラキラとしている。
「雑用でも何でも。……そうだ、なんだったら天宮さんの好きなものを作りますよ!」
少しでも天宮さんの負担を減らしたいんです、そう言って彼女は笑う。まるで天宮を安心させるかのように。
しかし、こちらとしてはかなでと休日を共にできるだけで十分過ぎるくらいなのだ。それなのに彼女を扱き使うなんて、どこか気が引ける。だが、断ったら断ったで彼女が悲しい顔をするに違いないし――
――そうだ。
そんな中、天宮に浮かんだ案が、一つ。
「君のヴァイオリンが聞きたい、かな」
そんな天宮の要望に、かなでは一瞬拍子抜けしたかのようにきょとんとした表情を浮かべた。とはいえ、ほんの一瞬だ。直ぐ様それは笑顔に変わり、彼女は演奏を快諾してくれた。
「リクエストはありますか?」
「そうだな、」
ふと、天宮の脳裏に一つの映像がよぎった。それはあの草原――彼女と出会って、初めて奏でたあの曲の光景であった。
「懐かしい土地の思い出、ですね」
わかりました、と得意の笑顔でにっこり笑うと、かなでは弓を構えた。
その瞬間から、次から次へと旋律が生まれ、紡がれる。それはやがて穏やかな流れとなって、天宮の中に入ってくる。そして広がる広大な草原――天宮はそっと、目を閉じた。
草原の中に、天宮は立っている。そして、その視線の先にはヴァイオリンを弾くかなでがいる。柔らかな陽射しに照らされたその姿は何とも美しく、燦然と煌めいているように思えた。
ふと、彼女と目が合った。その刹那、彼女は優しく微笑したが、再び音色を奏で続ける。それはまた、あたたかくて、やわらか――心の中に、流れ込んでくる。
優しいこのメロディーに包まれて、全てが浄化されていく。不思議なことに、先程までの疲れが一気に吹き飛んでいくように感じた。
それだけではない。この音色はまるで彼女自身――自分の全てを包み込んでくれるような、そんなぬくもりを感じる。
――ああ、僕は……
その音に誘われて、天宮は意識を夢の中へと落とした。
***
「あれ、天宮さん?」
演奏を終えたかなでが天宮の方を見やると、すっかり眠りに落ちた彼の姿があった。――余程疲れていたのだろう。かなでは極力物音を立てないようにヴァイオリンを片付け、天宮の隣へと腰を下ろした。
そうっと、天宮のほうへ視線を移す。間近にある寝顔は、普段の天宮からは想像できないくらいに無防備で、またどこか幼い。そんな彼が何だか微笑ましくて、かなでもついつい笑みを浮かべてしまう。
ふいに、右肩にかすかな重みを感じた。驚いて見れば、天宮の頭がかなでの肩に落ちていた。ふとしたことにかなでの心臓は飛び跳ねそうになったが、当の天宮はというと深い深い眠りの中。そんな彼に――安堵か呆れか、かなでは一つだけため息を吐いた。
「おやすみなさい、天宮さん」
心地よい胸の高鳴りを抱えて、かなでも目を閉じてみる。触れている部分から伝わるぬくもりがまた、かなでをすぐにでも眠りへと誘ってしまいそうだ。
幸せな午後、君の、あなたの愛に包まれて眠る。
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この二人だと、愛=音楽って書けるんじゃないか、そんなことをイメージしながら書きました。なんと言ったってヴァイオリン・ロマンスですし(笑)
ではでは、企画様と読んで下さったみなさまに感謝をこめて。
君と過ごす夏に提出させていただきました。
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