はいきゅー
□君を笑顔にする決意
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『なにやってるの。』
硬い声が聞こえた時、正直、一番会いたいけど一番会いたくない人と出会ってしまったと思った。
深呼吸してから恐る恐る振り返る。
烏野の真っ黒な上下のジャージを着て、同い年のマネージャーの湧が立っていた。
「ごめん湧、違うんだ、」
『なにが。』
君の顔を見たくない。
『なにが違うって言うの。』
「え、いや、違うっていうか…。」
**
俺が部活に行かなくなったのに特別な理由はない。
どうしてこんな茹だるような暑さの中、蒸し風呂のような体育館で、レギュラーでもないのに怒られ続けないといけないのか、俺は分からなくなったんだ。
そして成田と木下と三人で、ある日突然行かなくなった。
一度行くのをやめてしまうと簡単だった。
放課後の涼しいクーラーの下で、自分がどうしてあんなところに行ってたのか、理解出来ないと思った。
罪悪感はあったが、本を読む時間も勉強する時間も欲しかったんだ。
そんな日が何日も何日も続いた。
田中や西谷が俺らを遠くから見てるのには気づかないふりをした。
湧がどんな顔をしているのか、知ろうとしなかった、知りたくなかった。
だいたい俺なんかいなくなって湧が悲しむはずがない。
自分に必死でそう言い聞かせた。
優しい湧がどんな思いでいるかなんて、考えなくても分かったのに。
けれど、快適なはずの放課後は、気がつくと堪らなく苦しいものになっていた。
惨めだった。
何十回と練習して、たった一度だけ、試合でボールを繋いだ時のあの達成感、爆発的な高ぶり。
あの感覚から逃れることが出来ない。
机に座っていながら、手が震えた。
縁下ナイスレシーブ!
そんな湧の声が、脳みその、いや、心の奥深くから離れてくれなかった。
**
「辞めるんじゃないよ、戻ってきたんだ…その…ごめん。」
練習から逃げてごめん。
こんな弱い俺でごめん。
ちゃっかり戻ってきてごめん。
『待ったんだよ。縁下のこと、待ってた。』
「ごめん、本当にごめん。」
情けない、こんな根性無しな俺を待っててくれて。
「ありがとう。」
湧が無言だから、伏せていた顔をそっと上げる。
久しぶりにちゃんと正面から見た湧の顔。
あ、髪の毛短くなってる。
俺が逃げている間にも、もう強くもないこのチームを信じて支えてくれてたんだ。
その瞬間、グワッと心が暴れた。
やめろよ嫌だ、こんな感覚、また逃れられなくなるのに。
なんで俺、湧のこと好きだって気付いちゃったんだろ。
しかも、たぶん自分が思ってるよりずっと前から好きだ。
『縁下もう逃げない?』
「逃げない、絶対逃げないから。」
自分の気持ちに動揺して思わず震えそうになる声を必死に抑える。
ゆっくり湧に近づけば、眼鏡越しにその瞳が少しだけ濡れていることに気がついた。
「ごめん、泣かないで。」
俺なんかのために泣いてくれてありがとう。
『泣いてないよ。』
「嘘だ、泣きそうだよ。」
『縁下が泣きそうだって言うからだよ。』
湧に泣かれると困るよ。
こんな時に菅原さんだったら優しく涙を拭うのだろうけど。
俺は君に触れる勇気がないから。
「言いに行くよみんなに。また練習させて下さいって。」
『うん、頑張って。』
湧が笑った、やっと笑った。
そう言えば、東峰さんも大地さんも田中も西谷も、プレー1つで湧を笑顔に変えられる。
俺はバレーで彼女を笑顔にしたことなんてあるのだろうか。
あー、ダメダメ、こんな消極的なこと言ってる場合じゃないんだ。
俺は出遅れてる。
元々上手くないし、逃げた分も含めてめっっっちゃ出遅れてる。
けれどいつか、俺らを信じてコートを見つめる湧の顔を、自分のプレーで笑顔にしたいと思う。
出来れば泣くほど喜ばせてみたい。
そんな泣き顔ならいくらでも見たい。
そしてその笑顔で俺の幸せも一緒に連れて行って欲しい。
ちょっと高望みしすぎかな。
「締め出されたら…許してくれるまで粘るから。」
『私も黒川主将にお願いする。』
もちろん君を笑顔にするためだけにやってるんじゃない。
これは自分のためでもあるんだ。
もう苦しみたくない。
手放してから気づくなんて、そんなかっこ悪いことはもう嫌だ。
俺は諦めた方が辛いってこともう十分に分かったから。
今日から暑い中でまた走る。
ボールを落とせば怒られる。
でもその何時間もの苦しい練習が、たった一本試合で決まった時の、あの筆舌に尽くしがたい歓喜を与えてくれる。
そしてそれが結果的に湧を笑顔にするなら最高だと思うんだけど。
『また一緒に頑張ろうね。』
「よろしくお願いします。」
君の寂しい声や泣いた瞳はもういらない。
どうか笑っていて欲しい。
こうして根性無しの戦いは、この夏の終わりの1日から始まった。
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原作と違うところがあったらすみません。
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