花の名は

□沈丁花
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潮江先輩が卒業される。
6年生の卒業式に1年は声を上げて泣きだすわ、
学園あげての酒盛りは始まるわで園内は一時騒然となった。
無礼講と言わんばかりに
僕の前にも置かれた茶碗には並々と酒が注がれる。
初めてのそれを調子に乗って2、3杯一気に呷ると、
案の定すぐにくらくらと酔いが回って、
しまったと思った頃には足取りも覚束ない。
仕方なく席を立ってふらふらと風にあたっていると、
学園の裏庭、ちょうど大きな木の下で2つの人影を見た。
先客に親近感を覚えて近づくと様子の違いに気づく。
それは、我が会計委員長、潮江文次郎先輩と
その補佐役を担っていた4年の田村三木ヱ門先輩だった。
なにを話し込んでいるのか、この距離からではわからない。
ただ、重たい空気が漂ってくることだけは本能的に察知した。
建物の陰からその動向を伺っていると、
突然に潮江先輩が田村先輩の腕をつかんだ。
随分と強い力で捕まれたらしく、一瞬引きかけたその体は
くん、と反動をつけて潮江先輩の胸に抱き込まれる。
瞬間、田村先輩の顔に朱が差すのが、
この距離からでもわかった。
潮江先輩はお構いなしに寄せたその腰に手をまわし、
ぴたりと体をあわせると
もう片方の手で田村先輩の顎を捉え、そして…、

そして?



「いい加減にしてください…!!」


田村先輩の、悲鳴にちかい声とぱしん、と肌を打つ音。
あまりに一瞬で、あまりに衝撃的な光景に
僕の体は固まったまま動かなかった。
潮江先輩の唇が田村先輩のものと重なる。
それは紛れもなく、話にしか聞いたことのなかった
“くちづけ”なるものだった。


「先輩はずるいです…!
これ以上、僕を揺さぶらないでください!!」


田村先輩はそのままずんずんとこちらに向かって進んできた。
僕はとっさに隠れることもできず、
ただ見つかりませんようにと祈りながら
出来る限り壁に寄って気配を消すように努力した。
前を行く瞬間に見た田村先輩の顔は、
真っ朱に染まり目には涙をいっぱいに溜めていた。

その朱は、
その涙は、羞恥か、怒りか、
それとも悦びからくるものなのか。

知識も経験もまだまだ乏しい僕にはその答えは出せなかった。
ただ、確かなことは。
田村先輩のその顔が、
瞼の裏にぴったりとはりついて、
それ以来はがれなくなってしまったということだ。

今更ながらに2人の立っていた下の木は桜であることに気づく。
はらはらと舞う花に、
潮江先輩は打たれて朱くなった頬を撫で、静かに佇んでいた。
その後ろ姿は少し震えているようで、
僕は踵を返して一目散に駆け出した。

あてはなかった。
ただ、走りたかった。

体によってきられる風が、少し心地よかった。

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