働くお兄さん

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【1】

電車がホームに止まっていた。
始発駅であるため、電車はしばらくの間止まっており、人はまばらだった。ホーム内には車両に乗り込む人が数人歩いているのみで、他はすでに座席に座っていた。
2番線に下り列車がホームに入ってきた。帰宅ラッシュ時間は過ぎたというのに、終点駅で下車する人は多い。
人の波が消えかかると、またホーム内に静寂が戻ってくる。1番線の電車はまだ出発していなかった。

御門はホームに蹲っていた。なんとか電車を降りたものの、数歩歩いただけで座り込んでしまった。いつものメンバーで呑んでいただけだったのだけれど、そのうちの誰が呼んだか今では記憶に残っていないが、女を連れてきてからが酷かった。
酒に弱いほうでもない御門でも、その誰かが呼び出してきた女連中の中の一人がやたら強かった。
場の雰囲気に飲まれて、呑まされてしまった。
馬鹿なことをしたなと思っても、後の祭りで、結局こうしてホームに蹲って吐き気と闘うことになってしまった。

うへぇ、気持ち悪ぃ

はぁはぁと荒い息を吐きながら、御門は自販機の側で蹲っていた。
右隣の自販機はぶぅんと不快な機械音で唸り上げていた。それすらも今の状態の御門にはどうでも良いことだった。
ただただ込み上げてくる吐き気を押さえ込むことに専念していた。
水くらい飲んで落ち着きたかったが、生憎動いてしまえば吐き気が増しそうだった。

う、動けねぇ……

ホーム内にはまだ電車を降りた人が歩いていたのだが、皆一様に迷惑そうな視線や奇異の目で御門を見るだけで、誰も助けてくれなかった。
くそっ、と毒づきながら独りぼっちなのを感じる。
同じ方向に帰る仲間は一人もいなかったし、送ってくれる人間もいなかった。
かといって、もし仲間内の誰かが泥酔状態だったとしても、御門自身が、そいつを家まで送っていくかと思えばそうでもないことに気付いて、顔を歪ませながら短い笑いが出てきてしまった。

「きみ、大丈夫か?」

背中越しに声が聞こえて、御門はのろのろと振り返った。
人のよさそうな、メガネを掛けた男が立っていた。スーツを着ているからサラリーマンだろう。間違ってもホストやヤクザじゃない。
人の声を聴いたら、なんだか安心してしまった。

「気分悪いのか?」

コクリと頷くと、立てるか?と訊ねてきたと同時に、両脇に手を入れられる。どうやら立たせようとしているらしい。あんまり立ちたくもなかったし、動きたくもなかった。

動いたら出そう。

「ここで横になってなよ。んーと、何か敷くものっと……」

ベンチが近くあったことに今更気付く。できれば、丸くなっていたい。座っていることも苦痛だ。
男に促されるまま、ベンチに横になった。数台あるベンチを占領してしまったが、そんなことに構っている余裕なんて全くなかった。
男は、ちょっと待ってなといって、御門の側から離れた。途端に、寂しくなって目の前が歪む。一度人肌に触れると、離れた瞬間すごく寂しく、人肌恋しくなる。

「ほら、水買ってきたから。」

歪んだ視界の先で、男の顔が揺れていた。視界が歪み過ぎて、よく見えない。男の声は柔らかくて、優しくて、不思議と落ち着く。ボロリと目から何かが零れた。

ああ、俺、泣いてるのか。

と、御門がびっくりしたと同時に、介抱してくれた男が背中を擦る。

「あ〜ほら、辛かったら吐いちゃっていいから、ね?」

どうやら気持ち悪くて泣いていると思っているらしい。
御門自身も、なんで泣いているのかなんて、よく判らなかった。確かに、気持ち悪くて苦しかった。

「家、どこ?」

しばらく背中を擦っていた男が静かに聞いてきた。
喋ると中身が出そうで怖くて、御門は声を発することができなかった。
男のため息が聞こえて、御門は丸めた身体をさらに折り曲げた。

「……俺の家来るか?結構近いから、酔いがさめるまで休んでいけば?」
「…ぇ……」

ここで蹲っているましだろ?

そう言った男の顔を、初めて直視した。吐き気をやり過ごすためにきつく閉じていた瞼を押し上げると、鼻筋の通った綺麗な顔があった。ぱっちりした二重の瞳がメガネの奥にある。

今は心配そうな表情をしていた。

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