短編

□ミラージュ
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酷く暑い。
夜も寝苦しく、朝起き抜けから汗が噴出す。
アスファルトに覆われた真新しい道路は、縁石沿いの植え込み元から這い出してきたミミズが干からびて死んでいた。
それを避けながら歩く。
そばには猫の額ぐらいしかない小さな雑木林があるのに、暑すぎて蝉の声も聞こえない。
あまりの暑さに空気は澱み、揺れている。
ぶぅんと鈍い音さえしてくるような気がしているのは、空耳なのだろうか。
空を見上げると太陽がこれでもかというほど輝いていた。
空は高くて真っ白な雲が眩しい。
にじみ出てくる汗が忌々しい。
汗は流れる前にタオルで抑えているけれど、脇や首や肘、目の下や鼻の下、わずらわしいところばかり汗をかくような気がする。
服に汗が滲むのは避けたかった。
だってすごく恥ずかしい。
いつだって清潔にしていたい。
汗臭いのなんて真っ平だ。
汗をそのまま放置して風邪をひくのもごめんだ。
親父臭いといわれながらも、シャツの下にはいつだってランニングシャツを着ることにしている。
タイトなものを着ているからさほど年寄り臭く見えないと思う。
しかし、この猛暑はひどい。
熱中症で倒れる人が続出するのも頷ける。
これでスポーツをしたり、外で長時間作業するのは自殺行為だ。
幸いにして外の仕事じゃないから所詮他人事になってしまう。
たまに道路修繕などしている土木作業員を見ていると、本当に頭が下がる思いだ。
どこまでも続くように見えるまっすぐに伸びる道路。
最近開通したばかりのバイパス路だ。
暑さでアスファルトの匂いが立ち込めてくる。
すん、とにおいを嗅ぐと、アスファルトの匂いの中に緑の草の匂いが混じっていた。
まだ完成したわけではないこの道路。
本当だったら片側二車線の広い幹線道路になるはすなのだが、とりあえずの仮開通ということで、片側一車線道路になっている。
下りと上り斜線の間には、道路用地が確保されていて、盛り土がされていた。
真夏の雑草たちの逞しさにはほとほと呆れてしまう。
ついこの間ショベルカーが手を入れたばかりの盛り土の上にはびっしりと草が多い茂っていた。
確か草刈もしていたはずだ。
通常昼間は外に出ないから作業状況をみることはなかったけれど、事務所からの帰り、キャンプ場に行ったような青臭い匂いが立ち込めていたのを覚えている。
さして時間も立っていないのに、すでに草は元気に生えそろっている。
その勢いといったら何かに追い立てられているかのように必死なぐらいだ。
何をそんなに急き立てられているのだろうか。
勝手に雑草と区別されて、生えては人間に刈られることにだろうか。
そんな風に考えて、口元を歪めて笑みがこぼれてしまう。
熱くて近づいたら焦げてしまいそうな太陽に少しでも近づいているような、そんな気がした。
どんどん高くなる空に向かって、まるで届いてしまうかもしれないくらいの勢いを持って、伸びていっているようなそんな気がする。
そういえば、イカロスの話を思い出す。
父の忠告を忘れて空を高く高く飛んでしまったイカロス。
蝋が溶けて、青海原に墜落したイカロス。
雑草だって干上がってしまえば枯れてしまうのに。
また空を見た。
突き抜けるような高い空と焼けるような暑さ。
ふぅとついた吐息も熱い。
できることなら日陰を歩きたかったが、生憎影を作ってくれそうなものがない。
街路樹はあるものの、植えたばかりで歩道を覆うまでの影を作れるほど育っていなかった。

ふと街路樹に合わせていたピントの向こうに人の姿が見えたような気がした。
注意を向けると見間違いでないことがわかる。
丁度今の立ち位置は道路中央の盛り土が途切れていて、反対車線の歩道までよく見えた。
ひっそりとバス停で人が立っていた。
バス停といっても、バス停を示すポールがあるだけで、不親切なことに屋根もベンチもない。
暑いだろうに、その人は暑さを感じさせない様子でそこに立っているように見える。
なにぶん遠いので、表情まではよくわからなかった。
車通りも少なく、まして真昼間の暑い中で人通りも少ないためか、立ち姿からして男性だろう彼になんとなく目がいった。
ぞわりと背筋が粟立った。
どこからともなく視線を感じた。
立ち止まって周りを見るが人の姿はなかった。
突き抜けるような視線は、反対側にいる彼のものであると自覚した。
まっすぐ彼の顔が私を見るように前を向いていたからだ。
表情はわからない、だけれど、確実に、彼は私を見ていた。
私の何を見ているのか、強い視線だけはやたら感じて、背筋だけでなく、総毛立ったような気がした。
不気味であるとか、怖いであるとか、似ているようで似ていない私の心境は、到底一言では表しきれない。
全身を隈なく舐められるような、絡め取られてしまうような、そんな感覚もした。
なんとも不思議な感覚だった。
アスファルトから立ち上る陽炎も、暑さの音も、今、何もかもが無音になったような気がした。
今ここにいるのは彼と私だけで、彼と私だけがお互いの存在を認識しあっているという事実に、酷く身体のどこかが痺れるような胸をきゅぅと掴まれるような感覚に捕らわれる。

否、
私は彼の視線に、彼に捕らわれてしまったのだ。

全身金縛りにあったかのように、身体も眼球さえも動かせなくなっていた。

私の異常な状態を助け出すように、彼と私を隔てたのは循環バスだった。
私と彼を繋げていた盛り土の切れ間の細い空間は、循環バスによって遮られ、私は操り人形の糸が切れたように不意に虚脱した。
へたり込むまではいかなかったが、呼吸していなかったのかと思われるほどに急に大きく呼吸した。
どっと汗をかき、だるくなる。
汗を拭うことすらできなかった。
プシューとバスがアクセルを踏み込み発車する。
再び開けた視界に、彼の姿はもうなく、アスファルトから発する陽炎がゆらゆらと立ち上っていた。

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