五感が、吹き返す。



【投影】



私には永久に護らねばならぬ、過去がある。
其れは己の青年期に繁栄をもたらした賜物であり、極めて尊い存在である。

だが時間は、不変を拒む。
目先の過去は更なる過去へと変貌を遂げ、無常にも距離を拡げていくのだ。



宝物の様に反芻していた其れは、忘却の彼方へと去ってゆく。

自身に息付く想い出を必死に捻出しようと試みるが、繰り返す日常が容赦無く上書きし……、淡く薄らいで。

其れでも強引に想い出を捻り出し、私の元へ留まらせる。
きつく目を閉じ静寂な空間に身を投じて朧気に映る過去を、追慕する為に。


想像は度を超せば妄執と成る。
妄執は拙い幸福を増幅させ、私を緊縛する。

しかし其れに悲観する事は無く、救われているのだ。
柵(しがらみ)から自身で脱け出さねば、永遠に忘れ去る事は無いのだから。

私は愛情を過去に置いてきた。
慈愛と弛まぬ愛慕は、永遠を誓った彼女のみに捧げるもの。

想い出は儚く褪せても、最愛の者の姿は鮮明さを欠いていない。




私は墓前の誓いを、忘れてはならない。






……妻の緋真に先立たれてから幾重もの時が流れた。
脅かして来た心痛は次第に癒され、此れが時間薬なのだと身を持って知る。

屈強な精神を担う私だからこそ、取り乱す事無く変わらぬ生活を送れたのかもしれない。
哀愁の渦中にあった筈の当事者の自分が、第三者を宥める程に。

愛し愛される事は最大の糧であった。
互いが互いを必要とし、生涯添い遂げる覚悟が成長させ私を男にした。

隣で微笑みを絶やさぬ妻に計り知れぬ愛情を胸に秘め、既に居ぬ今は淡々と時を過ごすだけだ。

現状に不満は無く、寧ろ環境に恵まれていると自負している。
ただ我が身を討ち滅ぼす程の空虚が突如として覆い被さり、苦悶を強要してくる。



その都度沸き上がる感情を押し殺す。
露呈した処で、あの日に還る事は不可能なのだから。







「隊長……!」

「……騒々しいぞ、恋次」

彼の足音が詰所内に響き渡る。
落ち着きの無さは毎度の事、息を荒くして此方に寄ってくる恋次を気にする事無く、私は書類に目を向けたまま口を開いた。

「あれ、もう仕事してるんですか」

「……必要に迫られてな」

先程と一寸も変わらぬ表情で答える。
伝う額の汗を拭う彼を一瞬瞳に映した後、再び書類に視線を戻し彼の次の言葉を待った。



「……知らないんすか?」

徐に恋次が疑問を投げ掛ける。
私は其の問い掛けに若干の興味を抱き、静かに目を向けた。

「お前が醜態を晒した事は知っているが」

彼が此処に来た時と同じ表情で言葉を返す。
私の台詞を聞いた恋次は紅潮した顔から一変、顔面が蒼白する。

「……聞いてるのは其れじゃねーんだけど。いや……、あの……。……すみません……」

みるみる内に恋次は意気消沈し、蚊の泣いた様な声を出す。
反省の色を見せた彼を横目で見た後、其のまま机に視線を戻しながら疑問を投げ掛けた。

「……では何だ」

その事では無いのかと書類に目を通しながら彼に問う。
すると考え込む仕草をした後で、乱雑に髪を掻きながら言葉を返した。

「隊長知らないんですか?」

「だから聞いている」

「……知らないんならいいんです、今の忘れて下さい」

「…………そうか」

……聞き返す必要性は無いと判断した。
本当に告げたいのならば、恋次の性格上こうして思い留まる事はしない。

私はゆっくりと筆を置き立ち上がる。
其れを見ていた恋次が"どうしました"と声を掛けた。

「書類を十番隊に届けてくる」

「十番隊……?い、いや、俺が行きます!」

行く先を聞いた恋次が、徐に焦りながら声を出す。
其の行動と言動に不審に思いながらも、私は口を開いた。

「……お前は始末書を今日中に提出しろ」

「……はい……」

恋次は叱られた子犬の様に背中を丸め、覇気の無い声で返事をする。
私は其の表情を流す様に見ながら、無言で詰所を後にした。





広く長い廊下を真っ直ぐ見据えながら歩く。
床の白と隊員達の死覇装の黒の二色が私の視界に映し出され、歩く度に其の黒は深々と会釈をしながら道を空けていく。

隊長という職務に就いてから繰り返される情景。
最早毎日の習慣として認識しており、颯爽と素通りする他無かった。

……私は周囲から敬遠されている。
嫌悪を抱かれている訳では無く、文字通りの意味を顕す。

遠巻きに私の反応を凝視している状況が、感傷的な気分に多少浸らせた。


己が与えている印象は熟知しているつもりだ。
表情に抑揚が無い、反応が乏しい、有無を言わさぬ物言いが、周囲に緊張感を与えているという事実。

……単純に、感情を上手く表現出来ないだけなのだが。

恋次にはもう少し何とかならないのかとその都度言われるが、私は聞く耳を持たず業務を遂行する。


簡単に自身を変える事など出来ない。
私は私の誇りがある、当主として威厳は保たねばならぬのだから。

人との関わりよりも、家の尊厳を護り抜く事の方が重要であるのだ。


「……私よりも自分の心配をしたらどうなのだ」

彼は私とは正反対の直情型で、感情の起伏が激しい。
感情だけで無く行動さえも手に取る様に把握しやすく、特に闘いを前にすると其れは顕著だ。

熱い性格が災いし、頻繁に器物を破壊する。
今回の失態も、後先考えぬ彼の熱さが撒いた結果だった。

私は彼の壊した公共物の修繕費用を経費で補う為に、こうして書類を作成し十番隊へ赴こうとしている。

「……長所も行きすぎれば短所に様変わりだな」

しかし私は恋次を信頼している。
良くも悪くも其れが彼らしさ、多くの友人に恵まれ慕われる姿が羨ましくもあった。

尻拭いは骨が折れるが此れも最高責任者の定めと、軽く溜め息を吐きながら歩き続けた。






「早く渡して始末書を急かさねば」

十番隊に着き、私は隊首室の前で小さく呟く。

今頃始末書に悪戦苦闘している頃だろう。
奴は戦闘能力は長けているが事務的能力は拙い、確実に筆は進んでいない筈。

「……誤字脱字も有り得るな」

私は再び溜め息を吐く。
そちらの方が神経を磨り減らすと、確実に来るすぐ先の未来を憂う。

恋次には一度説教をすべきだと、険しい表情で決意しながらドアに手を伸ばした。

「あの、入りたいんですけど何か用ですか?」

開けようとした瞬間、声を掛けられる。

「…………」

……声色からして女だろう。
若干不躾な物言いに不快感を募らせる。

「すまないが、この書類を日番谷隊長……に……」

私は此処の隊員ならばこの者に預けようと、振り返りながら口を開いた。




……其れが、私を惑わすとは知らずに。




「緋真……?」




哀しみは時と共に失せていて、

気丈に繋ぎ止めようとしていても、

霞んでゆく残像は、軽薄さを知らしめる。

愛情は置き去りにしていても、

彼女は二度と、其れに応えてはくれない。



「……誰?」




……目前に映す其の姿が、戒めをもたらす。







続きます。



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