短編W
□断切の翼
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昔可愛がっていた女に振られたときは、それには彼も相応のダメージは受けたと記憶しているようだが、今となっては『あの頃は若かった』としか言いようがないのだろう。その女から久方振りに手紙が届いたかと思えば、結婚して近々子供が生まれるだとか、あのときは悪いことをしただとか、態々その相手と膨らんだ腹との写真付きで報告されて面食らったものだ。真面目な女だったとは思うが、まさか十年近くも前に付き合っていた野郎に、この内容で手紙を送りつけて来るなどと誰が予想しただろうか。
そして数年前、付き合っていた女を振ったときには、それはそれは酷く泣かれたものだが、今年になって行き着けのカジノで別の男と宜しくやっているのを態とらしく見せつけられてからは、少しは残っていた罪悪感も完全に払拭されるというものだ。
あの世界崩壊の日から、実に三年の時が過ぎ去り、セッツァーは今年でめでたく三十路を迎えることとなった。が、未だ独身である。
とはいえ同年の某王族兄弟も結婚の兆しが全くもって見えないことだし、別に三十で未婚だなどと珍しい話でもないのだから、気にする体でもないのだが(フィガロの二人に関しては、特に兄の方はさっさと嫁を貰った方が良いと思っているが)。
彼が結婚しないことには理由がある。
というより、結婚『できない』理由がある。腐るほど。
酒好き。ギャンブル。女癖。
全身傷だらけで目付きも悪く、言葉遣いも荒ければ態度も不遜。
寧ろ結婚できる理由の方が少ないのは自明であり、多少ボロクソに言われたところで動じない程度には、自覚も有った。
女というものは、総じて、自分の手元を離れていくものだと認識している。
女だった生き物は子を産み、母親となり、益々近付くことが不可能となる。
出会いには別れが付き物というが、自分の出会いにやってくる別れは些か早過ぎるところが有ることを、彼は良く知っていた。自身の性格が災いすることが有れば、違うものが原因であることも多々有った。
だからこそ、恋愛に打ち込むことはない。友情も、長続きさせない。小さな縁は繋いでおくに越したことはないが、翼というものさえ落ちるときは落ちるように、縁とて切れるときは切れるのだ。
呆気なく切れた一つの縁を思い起こしながら、吹かした煙草をゆっくり吐いた。
ここ最近は、特に、そんな気になることがなく。
嘗て共に戦った仲間をファルコンから降ろしていった、あのときからずっと、時が停滞したかのように同じ日常を繰り返していた。
今日までは。
「ファルコン、またここに戻してしまったのね」
「まあ、な。役目は終わったんだ。アイツも良い加減、静かに眠りたいだろ」
結っていた緑髪を下ろして、風と戯れさせている少女を見据える。
初めの頃は、地に足の着かない危うい存在だと思っていたが、この三年で、随分と大人びたような印象を抱いた。
彼女は何故ここに来たのだろう。
確かモブリズに、孤児達と共に暮らしていたのではなかったか。こんなに距離の離れた僻地で――ダリルの墓の入り口で、再会の日を迎えるなどと、露ほども予想していなかった。
仲間達の中で、未だ繋がりが有る人間といえば、フィガロの双子と、偶に顔を出すリルム、その関係で直接ではないが土産物をくれるストラゴスと、忘れた頃にフラリとやってくるトレハン、セリスの二人組。手紙と、ドマの酒を現地直送で定期的に送りつけてくるカイエン(こちらからもジドールのワインを返している)……とまあ、約半分程度に削られていた。
しかし、長く続いている方だとは思う。セッツァー側から何かを繋いでおこうとしなくても、向こうが自動的に関係を続けてくれているのだから、こちらからしてみれば有難い話なのだ。
他のメンバーは野生児に人外に謎の覆面……それからもう二度と繋がれることのない黒い奴。奴らとは実際に行動して会いにでも行かない限り、連絡を取る手段がないため、もう『切れた』ものと勝手に認識しているが。
たった一人だけ、ここに現れた例外を見据える。
再度、同じ疑問が浮上した。
彼女は何故ここに?
「誰かに呼ばれたような気がしたの」
「……幻獣の血は、消えたんだろ?」
「ええ。でも気の所為じゃなかったわ。……ここで、セッツァーに会えたもの」
出掛けた先で『偶然』再会したケースは希少だ。
互いに誰かに呼ばれたような気がして、訪れてみれば、そこに求めた相手が居た、というケースは更に希少だろう。
偶に整備のため訪れるだけだったこの場所を、意味もなく眺めるという行動は、初めてだった。まるで誰かに引き合わせるのを待つように、眠る友の前で一本、二本と煙草を消費していった結果――ティナ・ブランフォードが、そこへ現れた。
道中はロックとセリスに手伝って貰ったのだ、と微笑んで。
正直に言うと。
彼女とまた相見えることになったことは、素直に嬉しかった。憧れていた星空がまた近くなっていく、そんな錯覚さえ起こすほどに。
「……声が、聞こえたの」
「あ?」
「モブリズでお洗濯していたらね、――『ファルコンを、もう一度飛ばせてあげて』って、声が聞こえたの」
「!……おい、それは、」
「でもね、セッツァー」
「……」
「私は……わたし、は、……もう、飛べないから」
だから、お願いしに来たの、と。
荒くなりかけた呼吸を整えるように吐き出された声は、風に攫われて、その先に有るセッツァーの耳に届いた。
飛べないと呟いた彼女の心境は、何となく理解できる。
きっと、生まれた瞬間から共に有った半分の血が消えて無くなってしまったことに、彼女は戸惑っているのだろう。
魔石と父親への唯一の接点を同時に失い、地に足の着いた彼女は、おそらくは自分がもう飛べないものと思い込んでいる。
ファルコンを、もう一度、か……。
魔力の無い人間にだって、虫の知らせといった例が有るように、不可思議な現象に見舞われることは、多々有る。今回はその類であるのかもしれない。
ダリルが、ティナの前に存在を示したというのなら……俺が唐突にここへ足を運ぶ気になったことにも、合点が行った。
――眠らせた翼を、このままにしておくのは、間違っていると言いたいのだ。アイツも、ティナも。
だから、もう飛べない彼女達は、セッツァーに望みを託そうと言うのだ。
それがわかった、途端に。
「ああ、飛ばせてやるよ。……お前も」
「え……?」
「俺と来い。空が、待ってる」
言葉にし難い衝動が走り、彼は目の前で所在無さげに佇む細い腕を掴んだ。
少し――自分が苛立っていることにも気がつく。
彼女達が飛べないはずがない。ティナも、ダリルも、翼を失った程度で空を離れるようなことは有ってはならない。
自分に羽撃けと言うくせに、見送る側に徹しようなどと、誰が許してやるものか。
直感が告げる。
あの空には、彼女が必要なのだと。
舵を握って見るその景色に、その存在が、なくてはならない。それは彼女に翼が有ろうと無かろうと、関係のない話であることに気がついたのは、つい最近のことで……その夕暮れに溶け込む色を、ずっと手元に残しておきたいと――ティナを欲している。
いつからだろうか。
或いは出会ったときから、自由に空を飛び回る少女に目が釘付けになっていたのかもしれない。
ここ数年間、全く恋愛をする気になれず、女に対してその手の感情を抱くことがパタリとなくなってしまっていた。
ティナに向けた感情が恋かといえば、そうとも言い切れない。それでも絶対にコイツが影響しているものと確信している。
きっと自分は、自らの憧れた空を、嘗てあらゆる法則を無視して泳いでいたティナと、並んで飛び立ちたいのだ。
そんな若々しく小っ恥ずかしい望みを口にして、何処か腑に落ちたような心地は、悪いものでは無かった。
しかし。
何か言いたげに瞳を揺らしたティナは、それでもぐっと下唇を噛んだ後……ふと握り締めたセッツァーの手をゆっくり離し、俯いた。
緑の髪が表情を隠す。
今度もまた、離れていくのか。
確信がじわりじわりと脳内を侵食し、得も言われない喪失感に見舞われた。
「子供たちを残して、行けないわ」
「……」
「私、セッツァーのことは好きよ。でも……ごめんなさい」
「……そうか」
少女だったティナは。
今は――もう、『母親』だ。
特殊な環境で生まれ育ち、数多の運命を乗り越えた彼女は、これまで巡り合ってきたどの女とも違う魅力が有ると思っていた。故に、初めて芽生えた感情に折り合いが付けられず、あの日から何の接点も無いまま三年もの時を惰性で過ごした。
ようやく進み始めたと感じていても――結局、時の流れには逆らうことができないのだ。
あの日のティナは少女であった。
それは『女』としてセッツァーの前に立ちはだかる、当たり前の前触れであった。
どんな関係であっても。
『女というものは、総じて、自分の手元を離れていくものだ』。
どれだけ求めようと、どれだけ憧れようと、どれだけ追い縋ろうと――約束した夕暮れの丘に、あの女は現れなかった。
そんな最悪の結末を迎える前に、悉く縁を切り、切られた縁には固執せず、そうして生きてきた三十年は……酷く空虚で。
ダリルの居ない空は、相も変わらず美しいはずなのに、セッツァーには場違いであるような気さえして。
空への執着だけは捨てないまま、ギャンブルに明け暮れた。
そんな日々の中、やっと見つけたティナという希望さえ、今、擦り抜けて行く。
「……」
嫌だ。
「――ティナ」
「え?……ひゃっ」
抱き締めた。
「わかってる。それがアイツと翼の望むことだということは、俺が一番よく知ってんだよ……!」
「セ、セッツァー?」
「だが俺はもう、一人では飛べない。最早誰も乗せられない翼に意味はねえ。だから……だから、望むならお前のガキ共も一緒に乗せてやる」
「……」
「俺と来い。――頼む」
お前が居なければ、俺にはその夢を実現させられない。俺だけではもう羽ばたくことはできない。
それはセッツァーの中で、彼の心を時間を掛けて蝕んできた罪悪と孤独の表れであった。
ファルコンは、アイツのもんだ。
ファルコンは……自分の翼では、ない。
『もう一度飛ばせてあげて』。
そうアイツが願ったのなら、飛ばせるのは自分ではなく、託された人間でなくては、ならない。
そして願いを託されたのは、他の誰でもなく――ティナだ。
「……わたしね……セッツァー」
未だ腕に抱きとめたままの女は、いつか少女だったあの日のような、細い声を絞り出していた。
息継ぎの間に聞こえる空気の音を、酷く不安げに震わせながら、ゆっくり、ぽつ、ぽつと言葉を紡ぐ。
断切の翼
「ひとつだけ、まだ知らない感情があるの。……教えてくれるはずだった人達は、皆、居なくなってしまって」
「……ああ」
「わたし……たくさんの人と出会って、たくさんの愛を知って……それでも知らない『愛』を、教えてくれる人を探しているの」
「探して――ここに来たんだろ」
「……そうかも、しれないわ」
彼女もまた、孤独な人間であったのだろう。
手を伸ばし、掴みかけた唯一つの『愛』を、それを教えてくれる人間を、悉く失い、引き離されてきた。そんな運命を由とし、それが自然な摂理であるものの一つだったかのように、受け入れて流されて、今日までの日常を繰り返して来たのだろう。
強く求めたものほど離れていく。
――良い加減、断ち切らなければ。
折れてしまった翼を、空へ還すためにも。
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