Matrix-2
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 あとは忍耐勝負だ。恐怖を感じる暇はない。ダスクモンの全神経は、眼前に迫る敵と適正な距離を取る事と、残された一本の剣を餌食にさせない事のみに注がれる。先程のように、注意がいっていなかったが故に怪物への供物となってしまうだけは絶対に避けたい。そうなってしまった時点で――次の手が尚も存在するかどうかは分からない。無い確率の方がうんと高い。
 
 深紅の刀身が、怪物はそれを喰らおうとかっと巨大な口を開け、鋭い歯の峰を露わにする。やっと求めるものにありつけそうだという時、紙一重でダスクモンがゆらりと姿を消し、より遠方へ再び現れる。そして剣を見せつけるように突き出す。怪物はますます欲望を滾らせ、追えば追うだけ遠ざかる逃げ水の如き餌の元に必死で辿り着こうとする……その繰り返しだ。
 怪物もこの空間にあっては動きがままならず、餌の元まで来るのに多大な時間が掛かる。よってダスクモンはその分だけ長く集中力を持続させなければならないが、怪物の執着心もまた凄まじいものだ。こう何度もじらされて、いい加減に腹が立たないのだろうか? もし業を煮やして、殺しに掛かって来でもしたら――それこそ一巻の終わりではあるが。

 (オレとしては有り難いが……どうして此処までブルートエボルツィオンに執着するんだろうか。あの馬鹿でかい図体に比べたら塵芥程度で、腹の足しにもならんだろうに)

 ダスクモンは、心の片隅でちらりと思う。
 
 一方、大蜘蛛が完全にダスクモンに気を取られているその隙に、デュークモンは牛よりも遅い歩みで纏わり付いてくる黒い空間を掻き分け進み、脱出口へと漕ぎ着けていた。
 細氷から成った管のようにちらちらと燦めきながら、何処かへと伸びるそれは、大分昔に見たアクセスポイントにかなり類似した外観だ。デュークモンに近いのと、もう少し離れた箇所にあるのとで二本ある。片方はデジタルワールドに、他方はリアルワールドに繋がっているのだろう。
 末端部はデュークモン程度の体躯なら余裕をもって入れる断面積で、0と1の微細な結合体がひっきりなしに闇に流出し、淀んだ大気に溶解するのがはっきりと見える。この抜け道はどうもデータが一方通行のようだが、何とか滝登りよろしく逆行する事は出来るだろう。
 いよいよ、脱出の時が来たのだ。

 (ダスクモン、済まぬが先に失礼致す。どうか無事であれ……!)

 どうせダスクモンに何かあっても、自分が駆けつけて助勢するなどという事は出来やしない。相手を置き去りにする形になってしまう事に後ろめたさを感じながら、デュークモンは心中詫びを入れる。
 純白の甲冑纏える騎士はその姿を優しい輝きの中に消した。
 黄玉の瞳に映る景色が、一面の沈鬱な涅色から、一面の綺羅綺羅しい白色に一気に塗り変わる。急激な明度差に、デュークモンは反射的に目をしばたたいた。
 環境の変化はそれだけではない。突然あの高粘度のタールの海を泳ぐような感覚は一瞬にして消え去り、全身が抵抗力から自由になった。また、どうやらこの通路は幸運な事に、アクセスポイントの様に反対方向に向かう者にも寛容――つまり、双方向性であるらしい。緩やかに流れる大河に身を任せるが如く、体が自然と先へ先へと引っ張られてゆくのだ。
 
 さて、この通路は果たしてリアルワールド行きなのかデジタルワールド行きなのか。デュークモンとしては出来れば後者であって欲しいが、リアルワールドに行くとなると――ロイヤルナイツの良き協力者であるサー・佐伯と対面できる可能性がある。それだけではない。ドルモンと、そのテイマーとなりし人間に遭遇できるかも知れない。現実は前者の方であっても、見通しは幾らか明るいと言えそうだ。
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