□1,奇跡が起きても泳げない
1ページ/4ページ
#1 ラーナモン先生といっしょ
助けて。苦しい。
極限の精神状態で、苦悶の声を上げる。
だが声は何の意味も成さない。ごぼごぼと水を吸ったり吐いたりする音は地上に聞こえず、閉鎖的な水中空間で嘲笑われ、掻き消されるのみだ。
柔らかい照明を反射する水面の揺らぎが遠くなる。
藁の如くすがりついていたポリエチレン製の板が、自分を見捨てて地上へ逃げてゆく。恨みがましく、無力感で満ちながらそれを見送る。
ただ、自分ばかりが金床のように重く、沈んでいく。
感覚が鈍くなってきた。
意識が、底の知れない闇の淵と引っ張られてゆく。
抵抗は無駄だと悟り、彼は目を閉じた。
悲哀と悔しさが、瞼の裏に満ちる。
(こんなところで、俺は死ぬのだろうか。こんな馬鹿なことで、俺は短い生を終えるのだろうか)
力なく、鋭い歯を噛み締める。
意識が、押し寄せる無明に侵蝕されてゆき――
いつの間にか、彼はプールサイドに仰向けの状態で倒れていた。
目を閉じたまま動かない彼は、ぬいぐるみのようであった。体は鼻から下と腹の白い部分を除いては一様に青く、額には傷跡のようなV字が刻まれている。この小柄な龍の子はそれ故“ブイモン”という種族名を持つ。VはVictory(勝利)のVを表していると一般に言われる。
この状況が、勝利だとはお世辞にも言えないが。
ぐわんぐわんと響くような頭痛。それが少しずつ弱まるにつれ、意識が戻って来る。
ゆっくりと、透き通った紅玉に似た目を開ける。
目と目が合った。
自分を真上から見下ろす、自分と同じ二つの赤い瞳。心配そうなような、好奇心たっぷりのような。
水色のボディーカラーをした、人魚のような、魚人のような、良く分からない生物。巷では、「水の妖精」と称されているらしい、可憐らしい存在。
ラーナモン――最近市営プールのインストラクターとして赴任してきた、素性不明のデジモンだ。
水泳技術の高さに加え、その外見と言動で成長期デジモン達の人気を博しているが、ブイモンにはどうにも流行に付いていけない。経歴不肖でレベルも不肖な(成熟期かと思いきや、どうも一般的なレベル区分には当てはまらないらしい)あの半魚人の何処が魅力的だというのだろうか。お前らもあれに振り回されてみろ、いくつ身があっても足りない、と周りに言い聞かせたいばかりだ。公の場でそのような事を口にすれば、どんな目に遭うかは分かりきっているから黙っているが。
ついでに、自分とボディーカラーが似ているのも、目の色が同じなのも気に食わない要素だった。断じてこんな奴と同類ではないのだという反抗心が高まるばかりだ。
「ブイモンちゃん、だいじょーぶ? 生きてるー?」
ちょっとおどけたような、しかし本気で心配しているような声音。
ブイモンが段々意識をはっきりさせて行くにつれて、異常な状況が明らかになる。
即ち、ラーナモンが自分の顔の横に手を付き、馬乗りになっているという状況が。
全てを理解した瞬間、ブイモンは全力で後ずさりして飛び上がった。