Matrix-1
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#8 地獄界の貴公子


 風は止むこと無く、音も無く吹きすさぶ。

 涅色の淀む混沌は、色欲の渦巻きだ。
 電脳の無機的世界において、その淫欲は孤独な数たちの結合欲となる。虚空を漂う極微細な0と1はその欲により引き合わされ、連なり、意味あるものへと昇華する。あるものは果てしない結合の過程を経て魂となり、中核となり、やがて一つの実体を成す。
 こうして絶えず電脳の生命が生まれる。だがそれも、浄罪の暴風に晒され、繊細な生まれたばかりの電子生命も、容易く四散して再び意味を持たぬ孤独な数へと還る。
 色欲の大地では、こうして絶えず破壊と創造が繰り返される。

 天は昏い。何層にも垂れ込める厚い黒雲は、この世界を光より隔絶する壁の如し。
 時折閃く稲妻によって、鬱々とした静寂と闇が破られるに過ぎない。渇ききりひび割れた大地を、迅雷が断罪するように灼き焦がしてゆく。
 
 此処は大罪を背負いし諸魔王、燦々たる栄光溢れる天より墜とされし堕天使、そして死した魂が彷徨する暗鬱な世界、ダークエリア。その第二圏、七大魔王に列席する“色欲の”リリスモンが統括する地である。

 かの魔王の館は、ただでさえ暗い中更に濃紫の霧に常時覆われた一帯にひっそりと佇む。全三階建てのこのこぢんまりとした幽玄な洋館は、「紫雲薫る館」という芳名で呼ばれる。
 ダークエリアの何処を探してもかの如く雅な名の館はあるまいが、邸の大きさと豪勢さでその主の権力如何が分かるというきらいがあるダークエリアに於いては、今一つ弱い印象を与えるのであった。
 加えて、此処は第二圏というダークエリアの浅瀬から少しばかり進んだだけのような領域だ。より深部の領域を統治する魔王の方が力としても強大という認識傾向もあるため、リリスモンの魔王としての力は拠点の大きさ云々は別にしても、概して軽視されやすい。

 その「紫雲薫る館」、某一室にて。

 「ふうむ、成る程」

 一人の男が、悠然と脚を組んでソファに腰掛けていた。

 嫌でも目を引くような風貌だ。随分と奇特だが、同時に典雅でもある。二本の雄々しい角を生やした獣のマスクをすっぽりと被り、狼の獣毛の様な長い銀髪を揺らめかせる。すらりとした長身には、浅黄色の縦縞模様が入ったタキシードを纏う。その上には、赤と白を基調とした外套を羽織る。
 マスクよりのぞいた口元は微笑みを絶やさず、胡散臭い、或いは飄々とした印象を与える。

 「しかし、その件は私もどうにも致しかねますな。その消息を絶った究極体ですが、『たったさっき』新たに造られたデジモンなんでしょう? なら、幾ら森羅マッピングシステムといえどもデータが登録されていないから照会不可能、つまり追跡不可能ですよ」

 男は左手に手鏡のような端末を載せ、そのディスプレイに向かって喋りかけている。狭波長域(タイトバンド)での会話なので、会話相手にしかその内容は聞こえないし、傍から会話を拾う事も出来ない。傍聴や盗聴を防ぐ事の出来る、密談における必需システムである。
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