Matrix-1
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 #12 テイマーの使命、空白の席

龍輝はなるべく何も考えず、たった今発生した事態の一部始終を反芻した。人間界の常識を棄て、素直になりなさい。自然に身を委ねなさい――今まさに異次元の彼方よりデジタルワールドが自分に語りかけているような気がする。まあ行ったことは疎か見たこともない世界ではあるが。

 デジヴァイスが突然アラーム音を発したと思ったらそれはデジモン来襲のお知らせであり、てっきり倒すのを忘れていたデビドラモンが出向いて来たのかと思えば違い、しかも部屋の中に天使――もとい人型のデジモンが降臨し、何故か自分達の事を知っており、しかも敬語を使い、跪いた。更に、謝罪したのである。
 どうやって部屋に入って来られたのか。そもそも一体何がどうなっているのか。
 脳が情報流入過多で機能停止する前に、ノートという別のハードにデータを移しておいて正解だった。しかしある事実はそれ一個で絶大なデータ容量を誇り、龍輝の脳を圧迫する。圧縮不可能、拡張子変更不可能、削除不可能。
 そう、テイマーが責任重大な職業だというのは十二分に理解したが――まさか敬語で話され、跪かれるレベルの話だとは思ってもみなかったのである。

 腹を押し潰され仰向けのままダウンしているドルモン、床に座り込んだままドルモンから手をどけるのを忘れて固まっている龍輝、跪いている姿勢の大天使――ではなく、ヴァルキリモン。ちなみに戦乙女という名が付いているものの、龍輝の目には男性以外にはとてもじゃないが見えなかった。
 朝川龍輝の部屋に存在している以上三つの生命体は、暫く名状しがたい沈黙の内に静止していた。暫くといってもせいぜい一、二秒程度の事ではあるが、龍輝には恐ろしく長い間のように感じられた。どうしたらいいのか皆目見当も付かず、精神的に危機に陥っていたからである。

 「あの……」

 龍輝は漸く、と言うべきか、声を出した。
 
 「とりあえず、立って頂けないでしょうか?」

 テイマーがデジタルワールド的にはものすごくえらい立場の者であるとしても、リアルワールド的には普通一般の高校2年生であり、寧ろ年長者にぺこぺこしなければならない社会的に低い立場の人間である龍輝としては、跪かれる立場にまで急激に押し上げられるのは相当負担になっていた。更に、相手は異世界――デジタルワールドの住民なのだとしても、自分より遥かに高貴な身分の存在であるようにしか見えない。そのギャップが余計にきつい。
 龍輝の言葉に対して、純白の鳥戦士――ヴァルキリモンは顔を僅かに上げたように見えた。なので何となく色よい答えが期待できそうな感じがしたが、それは龍輝の勘違いであった。

 「有り難く存じます。しかしテイマー殿……わたしが貴殿をそういう意図がないとしても見下す姿勢を取るなどとは、とても恐ろしくて出来ません」
 「えっ……」

 声が途中で詰まる。テイマーとはそこまで偉い、まさか大王とか皇帝のような存在なのだろうか。
 しかも生まれて初めての「貴殿」呼ばわり。龍輝はそんな単語は、国語辞典か小説の中でしか見た事が無かった。果たして日本人男性の何%が、生涯で「貴殿」呼ばわりされる経験があるのか。

 「況して、わたしはただでさえ貴殿のプライバシーを侵害するような真似をしている。それについても、今一度謝罪を致します――本当に申し訳ありません」

 状況が状況なので、龍輝は言われるまでプライバシー権を侵害されていた事に気が付かなかった。まあ、気が付いたところでそんな些細な事はどうだっていい。
 何だか逆に自分が申し訳ない気分である。初めて会う相手、それも人間の若造風情に頭を下げ、謝罪を繰り返し、跪かねばならないヴァルキリモンは、恐らく大変不快な思いをしているだろう。そこまで考えて、龍輝は自分が平生の冷静さを取り戻している事に気が付いた。
 彼はさっきまで抜けたようになっていた腰をしゃんと立たせると、何とか両足で立ち上がる。自分も跪いている相手を見下す姿勢になるのが不遜な感じがして嫌だったが、そこはぐっと堪える。

 「いや、あの……別に大丈夫です。気にしていません。それに、どうか立って頂けないでしょうか。跪かれる理由も良く分からないのに跪かれたくないです」
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