Matrix-2
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 一面が黒い。一切の可視光と穢れをにべもなく撥ね付けた、至高の黒だ。
 
 光あるデジタルワールドと位相を異にするこの空間は、同じ電子空間でありながら虚空に走る回路が全く見受けられない。漂着し沈滞しているデータが雑然としており、しかもほぼ未分化の状態で存在意義をしかと持っていないせいだ。ただそのデータどもはひたすら不快なものであり、その内容を認識し得る者が触れ情報処理機構にて解析をしたならば、まともな精神状態をまず保てないような代物だ。

 空間には視覚的な広がりも方向性もまるで無い。紙を広げたようにただひたすらのっぺりとしており、どれ程進もうが景色がまるで変わり映えしない。更に、漂流しているデータの性質が空間の厭わしさに拍車をかけている。
 何らかの理由により此処にいるのを強制されている不運な者の精神力を、少しずつ着実に削っていくであろう事は想像に難くない。脱出する方法を見つけ出す前に、狂気に走るか自ら命を絶ってしまう可能性は高いだろう。肉体的なり精神的なり苦痛を与え続けられるよりも、「永遠に何もない」方が、時によっては遥かに恐ろしい拷問なのだから。

 ***

 黒でべったりと塗りつぶされたキャンバスに、高貴な色が上塗りされていた。
 真紅、黄金、そして白銀だ。
 光源など何処にも見当たらないのにもかかわらず、自ら輝きを放っているかのように鮮烈なそれらは、不定形のデータの混沌の中唯一確固たる、そして強い存在意義を持っているかのようで、あまりに場所にそぐわない様相を呈していた。
 三つの尊き色は、果てがあるとも分からない均質な闇の中をひたすら何処かを目指して突き進んでゆく。そのテクスチャーを貼り付けた異質な存在――即ち不幸にもこの空間に留まる事を強いられた者――は二つであった。

 一つは、騎士である――紅蓮の外套を緩やかにはためかせ、曇りなき白銀の甲冑に身を包み、目映い黄金で外周を縁取った大盾と円錐形の槍を携える。総じて明度や彩度が高い色を纏っているが、与える印象は至って静謐なもので、しかも卑俗さではなく誇り高さと高潔さを備える。
 彼の濁りなき黄玉に譬えうる双眸は、正面をしっかりと見据えていた。その視線はこの空間にあっては驚くべきことに、確固たる信頼と、希望に支えられているのが感じ取れる。

 騎士の目線の先にいるのは、もう一つの存在――言うなれば、幽鬼である。
 騎士が盾と槍を用いて空間を掻き分けるようにして進んでいるのに対し、彼は急に姿が闇に溶け消えたと思うと、より遠方に突如姿を現すという様に移動する。その神出鬼没さはまさしく夜陰を彷徨う亡霊であり、電子生命体の活動でありながらサイバネティックに見えないそれに、剛胆な騎士も初見では少なからず吃驚したのであった。
 幽鬼の全身を覆う漆黒の鎧はこの画一的な空間とほとんど同化し視認が難しいが、肋や足の部分に施された真紅の意匠、それと同じ色をした腕の代わりにある長剣は骨や血管のように生々しく浮き上がって見えるし、肩部にある巨大な目玉がしきりに動きながらぎょろぎょろと周囲をねめ回しているのはいやらしい程目立っている。それらの不気味なことと言ったらこの上無いが、背まである長い金髪の煌びやかさがそれを幾分和らげていた。

 「――近いぞ」

 幽鬼は低く呟いた。おどろおどろしい外見に似合わず、妙に透き通ったよく通る声である。
 彼は少しばかり右後方を向き、騎士に視線を寄こした。それを受け、彼は西洋式の槍の尖端をやや上方に向け、前方を庇うように大盾を構える。
 

 「デュークモン……決して抜かるなよ。お前が足を引っ張ろうものなら、瞬く間にオレもお前も此処でデータの塵に混じる事になる」

 幽鬼の後方を行く騎士――デュークモンは、台詞を真剣に受け止めつつ相手に倣って返した。

 「百も承知。此処を脱出するには、それ相応の代償は必要だという事であろうからな。貴殿の方こそ油断するなかれ、ダスクモン?」

 「ふん、オレは何と言っても古代十闘士の継承者だからな。『闇のスピリット』の力を甘く見るなよ?」

 幽鬼――ダスクモンの不敵な笑いと共に、鮮血に濡れたような長剣の刀身が妖しく煌めいた。
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