Matrix-2
21ページ/48ページ

 (そろそろか?)

ダスクモンは目を凝らし、遠方に際立って見える美しい細氷の路を見る。すると、紅蓮の外套が細氷の燦めきの中へと消えたのが目に入った。
 
 (――よし!)
 
 待っていたとばかりに、瞬く間に幽鬼はその姿を闇に掻き消す。
 視界から忽然と、完全に求めるものが失せてしまった怪物は、訳も分からずおろおろし始めた。ひたすら眼球をぐるぐると回転させて周囲を舐めるように見回すが、何処にも獲物はない。ただ、金髪の鮮烈さと血に濡れたように紅い刀身だけが、濁りきった巨大な眼球に残効の如く焼き付いて離れぬのみだ。

 逃れた獲物――ダスクモンは得意の瞬間移動を繰り返し、怪物の視界に入らないように注意しつつ元来た道を軽やかに戻ってゆく。目指すは輝かしいデータの通い路――夢にまで見た外界への抜け道だ。

 やっと、漸く、抜け出せるのだ。この忌々しい生まれ故郷から。デジタルワールドなり、リアルワールドなり、こんな空間より遥かに開放的で、色彩に富み、多くの生命体が存在しているのだろう。自身を構成するデータの塊、そして周辺に漂う悪趣味なそれからしか外界の情報を知らないダスクモンは、実際にそれを目の当たりに出来る時が近付いているのを感じて、笑みが零れるのを禁じ得なかった。

 突如、ごぼり、と何かが鳴る音が背後で響いた。

 (……何だ?)

 ダスクモンの表情に翳りが差す。
 厭な予感に突き動かされ、彼は進みながら鎧の肩部に埋め込まれた目玉をぐるりと回転させる。そうして――悪寒が背筋を駆け抜けた。
 後ろを向いた怪物の口ががばりと開き、そこから何か白いものが大量に流れ出しているのだ。その中に赤いものが混ざっているのも分かる。否、ただ雑多に混ざっているというのではない――それらは白いものの中心部に付いている――目玉だ。
 今や、ダスクモンは現実に引き戻され、一体何が起こっているのか仔細に理解していた。

 (海月を……吐き出しただと……!?)

 そんな真似が何故可能なのか、そんな真似を何故したのか、そんな事はこの際どうでも良かった。海月の大群は、明らかにダスクモンの方へと近付いているのだ。
 寄ってたかって、自分を喰らう気なのか。だとしたら、脱出してもその到着先でまた一悶着あるという事だ。面倒だ、と彼は舌打ちをした。手放しで脱出を喜べる状況ではないという訳である。
 果たして、どちらの脱出口へと逃げるべきか。ダスクモンは思案する。

 (デュークモンが入って行った路を選べば、奴は迷惑かも知れんが、あの海月どもを素早く始末する事が出来るだろう。しかし……)

 彼は結局別の道を選ぶ事を決めた。その方が自分にとって都合が良いかも知れない事に気が付いたからだ。

 (ふ、来るがいいさ。貴様ら如きが束になったところで、このオレは屠れん!)

 漆黒の幽鬼もまた、細氷の燦めきの中へと姿を消していった。
 
 ***

 デュークモンは白光に包まれ、流れ落ちてくるデータの塊を浴びながら、ぼんやりと思索に耽っていた。一体この路は何処に続いているのだろうか、などという事ではない。自分にとって、より深刻な問題について彼は考えていた。
 先刻、堰を切ったように溢れ出してきた夥しい記憶の数々……あれらは一体何だったのだろうか?己の身に起こった話であるはずなのに、まるで他人の事のように感じる。奇妙な話だ。
 精神統一をして氾濫を治めたつもりではあったが、まだ意識の表層を幾らかの記憶が漂っている。デュークモンはそれらを掬い上げ、吟味してみた。
 「あの時」、「デリートされる筈だった」――一体何の事だろうか? まるで自分の身に覚えがない。それ程までに危険な体験をしているというのなら、決して忘れるわけがない。
 ふと、デュークモンは思い出した。「お前には記憶がないようだからな」――自分をこの場所に転送した張本人、堕天せし魔王デスモンが口にした言葉だ。あれは本当の事だと言うのだろうか。そうであるのなら、何故デスモンが知っているというのだろう?
 プレデジノームに接続できる者が他に存在するというような事ものたまっていたが、一体どういう事なのか? それと記憶の話がどう繋がるというのか?
 
 溢れんばかりの疑問が彼の心を占めていた。そもそも、どうして自分はプレデジノームに接続出来るのだろう? 何故自分だけがその資格を持っているのだろうか? いや、それ以前に、プレデジノームとは何なのか? 原初的な言語以前のプログラムだというのは、答えにはならない。もっと、その存在の根源を、根拠を明らめるような答えが必要だ。そうでなければ、胸のつかえが取れない……同じように、自分は何者なのだろう? 自分が必死にしがみつくところのもの、ロイヤルナイツであるというアイデンティティは自分の全てではないのだろうか?
 
 この時、彼はつゆ知らなかった。ダスクモンも予想だにしていなかった。――デュークモンの入った脱出口から、海月の大群がひしめき合って昇ってきている事を。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ