Matrix-2
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 深海から上がった人魚姫というのは、地上の大気の軽やかさと何処までも開けた世界に胸を躍らせたのかも知れない。だが、彼の心情はそんなにロマンチックなものではないし、寧ろ深刻だ。

 凍雲に閉ざされた鈍色の空。しんしんと降り続け白い山を作る雪。ぽつりぽつりと道を行く人の少なさ。寂寥感を掻き立てる寒風に紅蓮の外套をはためかせながら、純白の騎士――デュークモンは、トタン屋根の上から寒々しい街景を眺めていた。

 彼は閉ざされたデジタル空間からつい先程脱出したばかりだが、もはや次にどうするか考えていた。最善なのは、守護騎士はサー・佐伯に合流するか、ドルモンとそのテイマーを探し当てるかだ。それらが可能ならば心配事の半分以上は減ったも同然だが、そんなのは盲亀浮木もいいところだ。リアルワールドの広さを甘く見てはいけない。 
 しかし、サー・佐伯やテイマーの方からコンタクトを取ってくるという可能性は存在している。サー・佐伯の所では、四六時中デジタルモンスターのリアライズを監視しているはずだ。もしかすると、ヴァルキリモンがこちらに寄こされるかも知れない。それを待った方が得策のようだ。
 だがまずは、自分の身を上手いこと隠しおおせることを考えねばならないだろう。異世界といえども、喧噪を持ち込むのはロイヤルナイツとして褒められた行為ではない。

 デュークモンは静かに閉眼した。座禅でいうところの「三昧」、それに近い状態に精神を置く。縒り合され一つの事柄だけに集中した意識は、さながら鉄条の如く精神世界を突き抜ける。

 (プレデジノームよ、このデュークモンの声が聞こえるか――)

 1の連なりが波となって意識に流れ込む。通信状態は良好らしい。

 (手短に言う。コマンドラモンタイプのテクスチャーといえば分かるであろうか?)

 今度は0の羅列――答えはNoであるらしい。プレデジノームは、最近のデジモンについてはよく知らないようだ。仕方無いので、デュークモンは要望を仔細に伝えることにした。

 (逐一周囲の迷彩パターンを判断し、体表面色を変化させるシステムが欲しい。できるだろうか?)

 返ってきたのは、累卵の如く連なった0の列だった。
 デュークモンは少し動揺した。今まで殆どどんな無理難題にも応えてくれた神が、Noと言った。「できない」と言われたことは実は以前にもあるが、数え切れない回数の中の二、三回に過ぎない。

 (出来ない?無理だと?)

 再び流れ込む0の連なり。不可能であるというわけではないらしい。
 つまり、プレデジノームは己の意志でデュークモンの要求を撥ね付けているのだ。こんなことは今まで一度もなかった。だが何ゆえなのか?

 (――よもや、そのようなせせこましい事をしている場合ではない、とでも申すのか?)

 返答はない。
 もはやこれ以上の通信は無意味だ。デュークモンは縒った糸を解くように意識を解放し、プレデジノームとの接続を切った。
 もしかすると、他のロイヤルナイツの事を慮れ、という警告だったのかも知れない。デュークモンにはプレデジノームがあるが、他の者は隠身の術など持ち合わせてはいないからだ。それとももっと直接的に、「俺を頼りすぎるな」というメッセージだったのかも知れない。
 どちらにせよ、反省はしている。己の非に跪ける謙虚さは、デュークモンの賞賛されるべき美徳であろう。
 
 直後だった。
 黄玉の瞳が、視界の端に何かを捉えた。
 急いで屋根から下に目を向ける。半透明なゼラチン質の体。中央に埋め込まれた充血したように赤い単眼。異形の生命体の姿は――海月に似ている。ぞっとするような姿だ。
 それがわらわらと、雪に覆われた地面を這っているではないか。
 デュークモンには直ぐさま思い出された。あの空間で共闘した不思議な者――ダスクモンが口にしていた言葉を。

 ――オレは直接見た……巨大な蜘蛛のようなデジモンが、小さな海月に似たデジモンを吸収しているのをな。

 (このデュークモンと同じ路を通ってきたということか――?)

 「きゃあああああーーー!!!」

 絹を裂くような悲鳴が上がった。
 たった今道を通りかかった女性が、あれの姿を見てしまったのだ。地べたにどんと尻餅をつき、腰が抜けたまま立ち上がれない。
 転んだ拍子に、ポケットから携帯電話がするりと滑り落ちる。雪に半分埋まったそれに、単眼の海月たちが餌を見つけたように群がってきた。
 姿を見られてはいけないなどと考えている場合ではない。聖槍グラムを構えながら、デュークモンは颯爽と屋根から飛び降りた。
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