Matrix-2
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 時は少し前に遡る。

 「我が神、我が神、何故我を見捨て給いし」

 デュークモンはそう叫びたい心境だった。

 神というのは勿論ロイヤルナイツを放逐して久しいイグドラシルの事ではないし、デュークモンが願えばどんな有用な働きもしてくれる謎の原始プログラム「プレデジノーム」の事でもない。存在しているのかどうかも分からない神に向かって喚き立てたい程、彼の精神は追い詰められた状態にあった。

 どろどろとタールの如く粘稠に流れる空間が、四肢に纏わり付いてくる。
 堕天せし魔王、デスモンが死ぬ間際に起動したプログラムにより此処に放り出され、かなりの時間が経ったような気がする――おそらく二日か三日くらいだろう――が、移動には全くもって慣れない。足を落ち着ける地面や床が一切なく、全身はさながら底無しのタール沼に沈んでいる。
 流動体の空間はその抵抗力で甲冑を纏った巨体の移動を困難なものにする。槍と盾をオール代わりにして空気を掻き分け進むも、抵抗力に加え殆どゲル状の空間の稠密さにはろくな推進力が得られない。非常に冷静かつ温厚な彼にとってすら、苛立たしく気が狂いそうな事この上ない状況だ。

 加えて、この不快極まりない空間を造り上げているのは、同様に不快極まりない内容を意味するデータに違いなかった。実際、データ探知センサーに引っ掛かる浮遊データから、呪詛や怨嗟の音無き呟きが延々と聞こえてきて電脳核デジコア情報処理機構に浸透していくのだ。
 しかし、厄介なことにセンサーをオフにする訳には行かない。データ取得を放棄するというのは即ち情報収集を諦めるという事であるし、このけったいな空間から脱出するのを諦めるという事である。プレデジノームの接続圏外になってしまった今、泥臭く脱出方法の尻尾を探す以外にないのだから。

 黄玉の瞳が上方を見上げた。デジタルワールドの空に視認できる電子回路はなく、一面乾溜液の濁った黒で塗りたくられている。もはや上方と下方の境界面も分からない。距離感もない。
 はあ、とデュークモンは鎧の下で溜息をついた。デジモンはレベルが上がるにつれて、情報処理機構内が高度に様々なデータを仕分けしてくれるようになるため、外界からの情報流入を断って自己の情報整理をするために眠る必要がなくなる。こんな時こそ眠って意識を手放してしまえたら良いのに、とふと幼年期のデジモンやリアルワールドの人間が羨ましくなる。
 精神力はがりがりと削られていく一方だ。
 そうして、さしものデュークモンも精神的に疲弊し、進むのを止めようと思いかけた時だった。

 「――!」

 彼は思わず身震いした。
 波動感知センサーをねぶられた様な感覚だ。

 (何者かに見られている――?)

 そのようだが、センサーが馬鹿になってしまったのか、どの方角、どの位離れた場所に自分を凝視している対象がいるのか判然としない。

 取り敢えず槍を構えその場に静止していると、ぼんやりと前方から何者かの姿が浮かび上がってきた。

 体格は人間とほとんど変わりない。ほとんど闇に溶けそうな鎧を纏い、対照的に煌びやかな金髪をなびかせる。腕の尖端には手の代わりに恐竜の類の頭蓋骨を模したものが取り付けられており、その喉の奥から真紅の長剣が伸びている。デュークモンを真っ直ぐ見ているのは、刀身と同じ色の瞳である。
 一見するとダークエリアに居を構える魔王の騎士のようだが、実際にダークエリアに立ち入った事のあるデュークモンはこのようなデジモンを目にした事はない。
 相手を黄玉の瞳で見据えたまま黙っていると、先方が口を開いた。

 「ふ、襲ったりするつもりはない……そうする価値は無いからな。誰だ?」

 「――デュークモンと申す。初見披露」

 相手の台詞に何か毒気を抜かれ、デュークモンは臨戦態勢を解いて名乗った。

 「デュークモン、か。見た所、かなり誉れの高い騎士のようだな」

 相手はもの珍しそうな目でデュークモンの白銀の甲冑や紅蓮の外套、槍や盾を観察しながら言った。

 「一応は――な」
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