Novel〜biyori〜

□紅
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唇に鋭い痛みが走った。乾燥した冬の昼下がりのことである。突然のそれに曽良は思わず唇を指で押さえた。曽良の指先の白い肌に鮮烈な赤が付着した。そっと舐めると、鉄の味がした。

嗚呼、自分は唇を切ったのだなと曽良は思った。そういえば、ここしばらく雨や雪を拝んでいない。どうやら曽良の皮膚は乾燥に耐えきれずに負けたらしい。冷たい空気が傷口に触れると、痺れるような痛みを感じる。唇を軽く噛み、舌で舐めて湿らせると、一時的には確かに痛みは和らぐのだが、乾燥した空気に触れた唇はすぐにもとの通りに、あるいはそれよりも悪化したように唇を覆っていたはずの薄い皮がひび割れた。

「もう、嫌になっちゃうよね、ここまで寒いと」

芭蕉が溜息を吐いた。白い息の溜息。少しでも指先を温めようと両手をこすり合わせている。小柄な身体を更に縮こませているものだから、その姿はひどく滑稽だった。

「曽良くんは大丈夫なの?こんなに寒いのに顔色ひとつ変えないけど」

「芭蕉さんが年なだけでしょう」

「そ、そんなことないわい!!まだまだ若いもの!!現役だよ!?」

失礼だな君は、などと喚く芭蕉を適当にあしらい、曽良は再び唇を舐めた。皮が剥けて未熟な皮膚が露わになっているものだから、滲むような痛みがある。

冷たく乾いた風が吹きつけた。ヒィン、と芭蕉が声を漏らす。曽良の腕を強く掴んで身を寄せた。

「もう無理!!寒すぎ!!凍えちゃう!!」

「いい加減にしてください、この…痛っ」

咄嗟に口元を手で押さえる曽良。彼の声に芭蕉は弾かれたように振り返った。

「どうしたの!?どこか怪我でもしたの!?」

「いえ、何でもありません」

「強がり言わないの!!」

とにかく見せて、と言って曽良の手を掴む。なかなか口元から手を離すことをしなかった曽良も、やがて渋りながらも手を除けた。地が滲んでいる曽良の紅い唇が目に留まる。

「唇が切れちゃったんだね」

「そうみたいですね」

「もう、何でこんなになるまで言わないの」

「舐めてたら治ります」

「治ってないでしょ」

曽良は反論しなかった。唇を噛むと、口の中に血の味が広がる。芭蕉は少し困ったように笑った。「ほら、こっち来て」と言って、曽良の手を引く。

向かった先は薬局である。店員に声をかける芭蕉。店員は若い女だった。

「すみません、あの…えっと、唇が荒れないようにする軟膏みたいなのってありますか?」

「軟膏…?あ、リップクリームならありますけど」

「そう!!それ!!リップクリームください!!」

何が軟膏だ馬鹿ジジィ、と曽良は思った。古臭いにも程がある。いちいちそこを突くのも馬鹿馬鹿しくて、何も言わなかったが。曽良の心境など知らない芭蕉は、懐から出した小さな財布から金を出して軟膏ないしリップクリームを購入。そのまま店員に礼を言って曽良の手を引き、外へ連れ出した。

平たくて小さな缶、それは曽良の想像していたリップクリームとは違っていたけれども、特に中身に違いはないらしい。棒状かと思っていたから少し意外だった。芭蕉が缶の蓋を開けてクリームをほんの少し指先に付ける。

「ほら、曽良くん、こっち向いて」

曽良が言われた通りに芭蕉の方へ顔を向ける。芭蕉の指が曽良の唇に触れた。軽く剥けた皮膚を馴染ませるように、リップクリームを乗せる。曽良の唇は意外と軟らかくて、芭蕉が軽く押すとへこむ。曽良の白い肌と対照的なまでに紅い唇はただでさえ色気を伴っているというのに、それに今自分は触れているのだなと思うと思わず頬が火照った。

そうだな、彼の唇の傷が治ったらキスをしよう。
芭蕉は曽良の唇をそっと撫でた。
 

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