Novel〜biyori〜
□半家
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「…家康様…あなたという人は…」
半蔵は深く溜め息を吐いた。家康が申し訳なさそうに身を小さくする。
この言葉は既に、半蔵が家康に対して苦言を用いる時に使う決まり文句となっていた。ママゴリラ並みの勇気を得た武田家の屋敷に忍び込んだ出来事以降も、二人の影武者に命を狙われる日々を送る家康は、半蔵が城の外へ出掛ける度に、その後についてきているのである。その度に半蔵は、家康の身柄を護りながら城へと、使命を果たさないまま戻るのだ。
いくら忍びといえど、自分の身の他のものを護りながら仕事を遂行することは出来ない。ましてや背負うのは将軍家の上様である。暗殺の間、どこかに放っておくことも出来なかった。
「外は危険なのでついてくるなと言ってるじゃないですか」
「…だってな、半蔵。」
口を尖らせて家康が言う。豊かな頬が、むうと膨れた。
「あの影武者たち、私を小手で殺そうとしてくるんだ」
「…まぁ…確かにそうですけど…」
半蔵はそこは素直に肯定した。
「それにな」
そっと家康が半蔵の顔を見上げる。半蔵の困惑したような表情が見えた。茶色がかった髪を頭の高い位置で結っている、細身で優男の容貌。そんな彼がする悩ましげな顔を伺いながら、家康は続けた。
「…お前の側は落ち着くんだ」
「……家康様、ですが…」
「私はお前の側にいたいんだ」
「……しかし、家康様」
「半蔵、お前は私を信じられないのか?」
家康の言葉に、半蔵は言葉を詰まらせた。家康の真っ直ぐな視線から思わず目を逸らす。
しばらくの沈黙の後、半蔵ひどく言いずらそうな表情で、躊躇いながら口を開いた。
「正直言ってあまり…」
「えぇ!? 空気読んでよ君!! そこは否定してよ!!」
驚嘆の声を上げる家康。半蔵の返答は予想外であった。半蔵が申し訳なさそうに眉尻を下げた。家康は、半蔵のその表情の意味をよく知っている。家康は心を落ち着かせ、再び半蔵へ向き直った。半蔵がひとつ咳払いをする。
「…正直、拙者自身よくわからんのです」
眉間にしわを寄せる半蔵。家康は意外そうな顔をした。半蔵が視線を畳の上に落とす。
「家康様のことはあまり信用はしてませんが、確かに拙者は家康様を信頼していますし、家康様が将軍につくだけあるほどの立派な御方であることも重々承知です。それに、拙者も出来る限り家康様のお側に居りたいと常々思っています。だから、家康様の御言葉は非常に拙者にとって喜ばしいことなのですが…」
そこで半蔵は一度言葉を切った。深呼吸をし、悲しげな色を瞳に浮かべる。
「なにぶん、拙者は家康様にお仕えする身分。家康様にもしものことがあれば、拙者は腹を斬らねばなりません。いや…斬る覚悟のもとでお仕えして居るのです。だから」
自分が外へ出ていく時についてくるねはやめて欲しい、半蔵はそう家康に言った。
家康は不満げな表情をした。が、彼の覚悟は十分過ぎるほどよく理解している。このことばかりはさすがの家康も何も言えない。
「だけど半蔵、お前は私が誰かわかっていてそう言っているなら、こうは考えてくれないのか?」
「…はい?」
半蔵は不思議そうな声をあげた。
「徳川家の頂点に立つこの家康の命令は絶対である、これは正しいか?」
「何を言うんですか。当然ですよ、そんなこと」
「じゃあ、命令だ」
家康が半蔵の方へ身を乗り出した。急に家康の顔が接近してきたものだから、半蔵はひどく驚いた表情をする。家康の口元には挑戦的な笑み。
「服部半蔵、お前は私の側を片時も離れてはいけない。そう言ったら、お前はどうする?」
半蔵はごくりと唾を飲み込んだ。見開かれた瞳には最大級の困惑、目が游ぐ。家康は黙って半蔵の返答を待った。
やがて、ゆっくりと半蔵が口を開く。目は、合わせない。
「…それは少し困ります」
「何か理由があるのか?」
「そんなことをしたら…拙者は…家康様の身の安全を保証することが出来ません」
「何を言うんだ半蔵は」
「……。」
「言ったじゃないか、私はお前の側にいたい。それに、もしも私が死/んだら、半蔵は自害をするつもりなんだろ? 半蔵と一緒に死/ねるなら、私は本望だ」
「……家康様…拙者が言いたいのは、そういうことじゃないんですよ」
半蔵は頭を抱えた。深く息を吸い、肺の中の酸素を全て出すほどまでに息を吐く。気持ちを落ち着かせる。
「半蔵、それはどういうことだ?」
「…拙者にそれを言わせるんですか…」
半蔵は困ったように眉尻を下げ、家康を見つめた。そして、自身を戒め、気を引き締めたように顎を引く。
凛とした、美しい表情。その半蔵の表情の変化に見とれている間に、気がつけば家康は半蔵の腕に包まれていた。
「…半蔵…?」
「…こういうことです、家康様…」
家康が半蔵を見上げる。茶色い髪のかかった耳が、真っ赤に染め上げられているのが見えた。
「…半蔵、もうちょっとしていいぞ?」
「……家康様は本当に怖いもの知らずだ」
言って、半蔵は家康の顔を自分の胸に押しつけ、頭を腕で包み込む。家康のつむじに優しく口づけをし、「これだけですよ」と言った。
「これ以上は無理です。拙者がもちません…」
家康を包みこむ半蔵の身体は、わずかながら小刻みに震えていた。