Novel〜biyori〜
□衝動的に太妹
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初めての口づけは、彼からの優しい額へのものだった。妹子の前髪を自分と同じように撫で上げ、大きな手で妹子の頭を包み込んで逃げられないようにする。短く照れ臭いような音を立てて太子の顔は妹子から離れた。突然の出来事に目を大きく見開く妹子に、太子は「へへっ」と嬉しそうに笑ったのだった。
二度目は頬へ、三度目は鼻先へ、どれも不意討ちというか、机に向かっている妹子へのものだった。身体が硬直して何も反応できない妹子へ微笑を浮かべて太子は逃げ去る。しばらくたってから妹子は、自分がいったい何をされたのかを理解し、赤面するのであった。
四度目からは唇へ。自分より幾分体温の低い太子の唇から漏れる熱い吐息に目眩がする。妹子の思考回路を完全に止め、その瞬間だけは妹子を自分だけのものにする太子。熱を帯びた吐息と舌は、そのまま妹子を溶かしてしまいそうなほどに魅力的。
「…どうしたらいいですかね」
妹子は池に行って竹中に事情を話した。妹子の話を実に愉快そうに聞く竹中は笑顔で頷く。
「すいません、なんか愚痴みたいになっちゃって」
「別に構わない。俺は恋バナが大好きなんだ」
妹子が竹中のもとへ通うようになってから、この台詞は何度も耳にしている。その度に妹子は、人は見かけによらないなと思うのだが、そうも言っていられないほどに妹子の方が重症であった。
「で、イナフは実際のところ、太子にキスをされることに対してどう思ってるんだ?」
「キ、キキキキスって言わないでくださいっ!!!!!!」
妹子の頬がみるみるうちに紅潮してゆく。竹中が愉快そうに笑い、水面が揺れた。妹子が目を伏せる。その時に垣間見えた耳は、病的なまでに赤く染まっていて、竹中は微笑ましい気持ちになった。
「で、どうなんだ?」
「…正直、よくわかりません。ていうか…」
妹子は深く息を吐いた。覚悟を決めたように口を開く。
「……太子にキスされる度に、頭が真っ白になって、身体中が太子に溶けていくような感覚になるんです。このまま二人が溶け合って一体化してしまうんじゃないかってぐらいになって…。ドキドキしてるのに何もできなくて、いつもと違って太子の思うがままに自分が操られてしまっているような感じになるんです。でも、それが不思議と嫌じゃないっていうか、むしろ心地良いっていうか…」
「ははは、複雑だなぁ」
「何て言うか…こう…」
「ん?」
「『太子となら、このままいってしまってもいい』って思ってしまうというか…」
「キスだけでか?」
「はい…もう、何も考えられなくって…」
「重症だな」
「……。」
自分で自覚していても、他人に言われるとその言葉が胸に刺さる。妹子は口をつぐんだ。身に付けているジャージと同じくらいに顔を赤くする。竹中が苦笑した。
「…竹中さん」
「ん、何だ?」
「太子って、はっきり言ってただのオッサンじゃないですか」
「まぁ、そうだな」
ずいぶんはっきり言うな、と竹中は思った。が、妹子の言うこともわからなくはない。
「それに、加齢臭するし、カレー臭もするし、イカ臭いし、ジャージ臭いし、なんか臭いし」
「ようするに臭い、と」
「はい。それに、馬鹿だし、自己中だし、気まぐれだし、仕事しないし、落とし穴作るし、オッサンだし、臭いし…」
妹子はそこで言葉を止めた。眉間にシワを寄せて下唇を噛む。竹中はそんな妹子の顔を興味深そうに覗き込んだ。
「…ようするに…」
「ん?」
「……。」
「……。」
「……つまり…」
「…イナフ?」
「ドストライクなんですよっ!!!!! あり得ないくらい好きなんですよっ!!!! 世界中で太子だけがいれば充分だって思えるくらい大好きなんですよ!!!!」
妹子はそう叫んで、頭を抱えたまま地面を転げ回った。色恋は人を変えるとは言うが、ここまで発狂されてしまうと、逆に心配になってくる。竹中は不安げに妹子を見つめた。妹子の「あ゛あぁぁぁ〜」という声。重症だな、と竹中は思った。
「そんなに好きなら、告白すればいいじゃないか」
「無理です」
ガバッと妹子が起き上がる。いつになく真面目な表情で言うものだから、竹中は思わず笑ってしまいそうになった。こんなにもお互いににベタ惚れだというのに、当の本人がこんなことではどうしようもない。
「まぁ、太子に直接ぶつけてみるというのも、ひとつの手だと思うがな」
竹中の言葉に、妹子は曖昧に頷いた。
「はっはっはっはっは、あっはっはっはー」
太子の笑い声が聞こえる。正直に言って『キモい』が、妹子にとってそれはもう慣れた風景である。声を上げて笑いながら走り、蛾を追いかけるその姿。妹子はとっさに物陰に身を隠し、何となく、転べばいいのに、と思った。
「おまぁっ!!」
「あ、本当に転んだ」
見事に草むらに足を取られて転倒した太子。しかし、すぐにむくりと立ち上がり、ふぅと一息吐いた。何故か清々しい笑顔を浮かべている。
「この頃妹子が私に隠れていろいろとしているみたいだからな、上司に隠し事をするのはいけないことだとわからせてやらんと。この虫かごに入った169匹の蛾を一斉に妹子の家で放してやる」
(なっ…地味な嫌がらせはやめろーっ!)
妹子の顔が蒼白になる。全く迷惑な摂政だ。何故こんな人物に自分は夢中なのか、自分が自分でわからない。
満足そうな太子の悪魔の笑み。またの名をウザ顔という。その表情はひどく妹子を苛立たせる。
「あ、ちょっと待てよ。妹子はイナフだから、あと3匹で172(イナフ)になるじゃないか。さすが私! 摂政たるもの、細かい気遣いもなければ」
「いや、意味わかんねぇよっ!」
妹子の声に太子がビクッと身体を震わせた。驚いたように振り返り、妹子と目が合う。振り返った拍子にガシャンという音を立てて虫かごが落下。二人の間に169匹の蛾が一斉に飛び立った。
「い、妹子…。…違うぞ! これはだな、ちょっと捕まえてみたくなったからやっただけで…」
「弁解はいいです、太子。全部聞いてましたから」
妹子の冷静な言葉。太子はシュンとした顔をした。妹子にはバレるし、蛾には逃げられるし、作戦は実行することなく失敗に終わった。
妹子が太子の方へ歩み寄る。太子はひきつった笑顔を浮かべた。
「…太子」
「ひっ! 殴らないでくれっ!」
「いや、殴りませんよ。臭いし…」
「おまっ、まるで殴りたいけど私が臭いから殴らないみたいな口調…」
妹子はひとつ深い溜め息を吐いた。しかし、うじうじとしている場合ではない。決めたことはすぐに実行するのが男だ、と妹子は思っている。
妹子はごくりとつばを飲んだ。
「太子、目を閉じてください」
「は? 何だよ突然、びっくりするじゃないか」
「つ、つべこべ言わずにさっさとやれっ!」
「はいぃっ!」
太子は強く目を瞑った。悔しいながらも太子より伸長の低い妹子は精一杯背伸びをする。
視界を消した太子に、唇に何か柔らかいものが押し付けられたような感覚。予想外の出来事に目を見開く太子。視界を開けば目の前で、妹子が両手で熱を持った頬を押さえて冷ましていた。
「…妹子、お前」
「……。」
何も言うな、妹子の全身からそんな気持ちが滲み出ている。しかし、太子はそんなことを全く意に介さない様子で言葉を続けた。
「お前、キス下手だなぁ」
「なっ……///」
「じっくり味わえなかったじゃないか」
実に不満げな声。妹子は更に顔を赤く染め上げ、林檎のようになった。熱い、身体中がとにかく熱い。
「し、仕方ないでしょう!! は、はは、初めてなんです、からっ!!(自分からするのは)」
妹子が太子から目を逸らす。太子は驚いたように2回ほど瞬きをし、そしてニヘラァと笑った。
「へぇ〜、初めてなのかぁ、そうかそうか」
「うううるさいですよっ」
嬉しそうに、弛んだ笑顔の太子。そっと妹子の耳元へ口を近づける。軽く息を吹きかけると、妹子の身体がびくりと硬直した。
「…た、いし?」
「妹子の初めてもらっちゃった」
ニヤリ、太子が意地悪そうに笑う。その熱を持った声に全身の力が抜けて立っていられなくなりそうになる。目眩がする。何もかも、わからなくなる。
「安心しろ、私がゆっくり教えてやる」
嗚呼、溶かされるな、と妹子は思った。思った瞬間、妹子は太子の存在だけを感じた。