Novel〜biyori〜

□天国×曽良
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人の気配というものが殆ど感じられない夜の道はこの上ない寂寥感で満たされている。時折吹き付けるその風は容赦無く駆け抜けてゆくから、まだ夜は寒いな、と曽良は思った。暦の上では春はとうの昔に来ているというのに、太陽が出ている時は暖かいのだけれど、日が暮れればその空気は肌を切り裂くかのように冷たい。

曽良は赤く火照った顔をマフラーの中に埋めた。酒にはあまり強い方では無いから、こうしていつも飲み会帰りには自分の吐く息で感じられるわずかながらのアルコールを嗅ぐのだ。少しはこれで体温が上がるかもしれないな、と思う。再び息を吐く。日本酒の香り。

(…あの太子さんと飲み比べをするなんて…この人は馬鹿だ)

いつもと違うのは、曽良が珍しく人を負ぶっているということだ。非常に情けないことなのだが、普段ならば先に自分が潰れてしまうから、どちらかといえば負ぶってもらう側の人間である。だから極力他人の迷惑をかけないようにと今日は酒を殆ど口にしてはいないというのに。

「曽良ぁ、悪いなぁ」

「…いえ別に。いつも鬼男さんにはお世話になってましたから」

答えると、フフッ、と耳元で笑声。背負われた人物、鬼男はすっかり赤くなってしまった顔を愉快そうに綻ばせた。

曽良と違って鬼男はかなり酒には強い方だ。が、完全に酔わないという訳ではない。一緒に飲んでいた太子がまるで水を飲むかのように酒を次々と仰いでいくものだから、つい限度というものを見失ってしまったのだろう。会社でも屈指の肝臓の強さを持つ太子に敵う者など、そうそう居るはずもない。だから、飲み比べなどとしたら自分の限界を見誤ってしまうことなど、分かり切ってはいたのだけれど。鬼男の吐く息は、自分のそれよりもずっと強烈なアルコールの香りがして、それだけで曽良は酔ってしまいそうだった。

「曽良ぁ」

「…何ですか、鬼男さん」

「俺は辛ぇことがあった時とかはなぁ、酒飲むんだけどよぉ、もっと酔い潰れるまで」

負ぶってもらっているくせに、これでも完全に酔いつぶれていないだなんて、それは命の危険というものを考慮しないのだろうかと曽良は思った。

今日は新入社員歓迎会の二次会で飲みすぎてしまったというだけだ。つまり、辛いことがあってヤケになって飲んだ訳でも何でもなく、これは社会で生きていく上での義務に近い。

それなのに、突然こんな話を切り出すだなんて、どうかしている。大体、ここで今曽良が鬼男を降ろせば、確実に彼は立っていられないに違いないというのに。

そんな曽良の口に出さない毒づきなど知る由もなく、鬼男は熱に浮かされたように続ける。

「お前はさぁ、酒飲めねぇだろ?」

「はい、そうですね」

「辛ぇ時とかどうしてんの?」

「……。」

そんなこと、今聞くことじゃないだろ。
普段ならばいつだって爽やかな笑顔で和かな対応をしてくれる鬼男だが、酒が入ると駄目らしい。アルコールによって口調が変わるという人間を曽良は今までに何人も見てきたが、鬼男のこれではまるで、元ヤンだ。

(…麻薬売りみたいだ…)

大体、辛いことを進んで他人に話すという神経が曽良には理解出来なかった。他人に話したところでその根本の原因が解消される訳ではないし、自分の感情など他人に完全に理解されることなど不可能なのだから、中途半端な同情をされるよりは1人で動いた方がマシである。何より、他人に話さなくていいくらいに自分が強くなればいいだけの話ーー。

「忘れてぇこととか、ねぇの?」

それなのに、鬼男のその言葉のひとつひとつが曽良の心臓を抉るようで、痛い。

「…何が言いたいんですか」

曽良は、忘れたいことを自分では忘れたつもりでもそれは決して忘れられるものではない、と以前芭蕉に言われたのを思い出した。過去は消えない。仮に忘れてしまっていたとしても、何かしらのきっかけで思い出すことなど容易だ。嫌なことや辛いことに関しては、特に。

それは自分の努力によっても、他人の手にかかったとしても、だ。酒を飲んで忘れるだなんて、一時逃れでしかない。

けれど、酒の飲めない曽良にはその一時逃れさえ、出来ない。

「忘れてぇだろ?」

「…だったら何だというんですか」

「食われたら忘れるぜ?」

「食われ…!?」

ここで初めて気がついた。
自分が背負っているのは、会社の同僚の鬼男ではない。
邪悪に微笑む口元から覗く鬼男の歯は、あの茶目っ気のある八重歯ではない、犬歯である。いつもは穏やかな光を放つ色素の薄い瞳は、むしろ真紅に近くギラつかせている。そして何より、褐色の皮膚の手の指先に光るのは、鋭い爪。

「大王によぉ」

「!! …っ、鬼男、さ…」

曽良にしがみつく鬼男の力が強められ、曽良は思わず顔を顰めた。その鋭い爪が食い込む。布の生地を突き破り、シャツも嫌な音を立てて破れた。鋭利な爪が曽良の生白い肌に直接突き当てられる。

「…痛い、です」

流石に冷や汗が流れる。鬼男の爪は曽良の肩を刺すように食い込ませ続けている。その爪が根元まで突き刺さった時には、白いワイシャツに赤い液体が滲んだ。痛みに、思わず唇を強く噛む。

「…ぅ、あっ、」

肩に熱を持った激痛が走った。

これ以上食い込むことな無いはずの鬼男の爪。しかし、鋭利な何かが曽良の身体の更なる奥へと刺し込んでいく感覚が確かにある。

考えられる答えはひとつしか無い。彼の爪は伸びているのだ。その強靱な力で曽良の肩に押し付けたまま、その両刃ナイフのように鋭い爪が、曽良の
皮膚を、
肉を、
血管を、
突き進んでいるのだ。

「…、クッ…鬼男さ、ん、離れてください…」

両肩からは大量に鮮血が流れる。身につけているスーツはきっと、もう使い物にはならない。曽良の足取りが覚束なくなってくる。急激に体内の血液を失ったからだろうか、持病の貧血を酷くしたような眩暈と立ちくらみがした。

「曽良ぁ、知ってるか?」

「…っ、ハァ…何を、ですか…っ!!」

指先に力を込められ、その僅かな擦れに全身が痺れるほどの激痛が駆け抜けた。思わず膝を着く曽良。生まれてから経験したことのない痛みに呼吸もままならない。地面には自分のものと思われる、鮮烈な赤の水溜りがあった。

「逃げることは悪いことじゃねぇんだぜ?」

鬼男を背負っているはずの背中に、何故か冷たい風が吹きつけたように感じた。

刃物が体内から引き抜かれていく感覚で曽良は、鬼男の爪がもとの長さへと戻っていくのだと理解。しかし、刃物を抜かれたことにより出血は更に激しさを増す。地面に座っているというのに自分の姿勢を保つことすら出来ない。が、背後の彼が今度は逆に曽良の身体を支えている。

「…知ってますよ、それくらい」

鬼男に言われなくても、そんなこととうの昔に自分で気づいている。鬼男は酒で逃げるのかもしれないけれど、酒が飲めないならば、それなりの逃げ場くらいこの年齢にもなれば作ってある。

それが正しいのか正しくないのかは別として。
酒を飲んで逃げることだって、正しいのか正しくないのかはわからない。
否、逃げることすら、もしかしたら正しくないのかもしれない。
けれど、この世界のルールとして、正しくないことをしてはいけないなどという決まりも無いから。

曽良の返答が意外だったのか、耳元で、ほぅ、と息を吐く音がした。

「へぇ、知ってたんだ」

「……。」

「君、全然逃げないから知らないのかと思ってたよ」

曽良は息を呑んだ。

背後から聞こえた声は、曽良の全く知らない声だった。先ほどまでの、酔いつぶれて不良のような言葉遣いになっている鬼男、ではない。もっと飄々とした、そして曽良の神経を逆なでするような声。

じゃあさ、とその声は曽良の耳元で囁くように続ける。

「お酒が飲めないなら、俺の力を借りるなんてどう?」

「…お断りします」

男の指が、曽良の傷口に思い切り爪を立てた。曽良の表情が歪む。先ほどの鬼男ほどの殺傷力のようなものは無いが、麻痺から回復しかけている痛みの感覚をぶり返されて辛い。彼の指の間から曽良の血液が絶え間無く流れ続ける。

「前世ではそうしてたじゃん」

鬼男とは違う、病的なまでに青白い肌をした指が曽良の首元を這う。指先が僅かに粘着質なのは、恐らくは乾きかけた曽良の血液が付着しているからなのだろう。遠退く意識を必死に掴み、曽良の唇から掠れた声が漏れた。

「鬼男さんではありませんね…あなたは、誰なんですか」

「え、俺?」

手放す意識の最後に見えたのは、深紅の瞳を湛え、さも愉快そうに笑ってみせる男の顔。

「俺、閻魔大王だけど?」

嗚呼、僕は彼を知っている。
思いながら、曽良の意識は闇へと沈んだ。
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