Novel〜biyori〜
□家庭教師×生徒
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毎週水曜日と金曜日に、芭蕉は曽良の家を訪れる。
「ごめんください」
言われて曽良が出迎えると、芭蕉は柔和な笑顔を浮かべた。彼は曽良の家庭教師である。
「前回出した宿題、難しすぎたり簡単すぎたりしなかったかな?」
芭蕉はプロの家庭教師ではなく大学生のバイトとして高校生の曽良に勉強を教えているだけであるから、自分の中でも至らない点が多々あるであろうことを重々承知しているのだろう。曽良に招かれ靴を脱ぎながら尋ねる。曽良は芭蕉を部屋に入れたのち、ゆっくりとその扉を閉じつつ、少しだけ目を伏せるようにして考える素振りを見せる。やがて、これもまた唇をゆっくりと開き、声を発した。
「そうですね…難易度は問題なかったのですが…」
曽良が落ち着いた、しかしはっきりとした声で言う。
「正直、全てのプリントの端に俳句の形さえなしていない何かが書いてあるのはウザかったです」
「何で⁉︎曽良くんのためを思って頑張って作ったのに‼︎」
おっかしいなぁ、と芭蕉は唇を尖らせた。彼の反応から推測するに、彼自身、その俳句はよく出来たと思っていたらしい。
曽良がそれらが俳句の形式を全く持って無視していたにも拘らず俳句であるとわかったのは、以前曽良は、芭蕉が大学の俳句同好会に入っていると聞いたことがあったからだ。その時に、俳句を詠むのかと曽良が尋ねたところ、「詠むよ‼︎もう私なんて俳聖だよ⁉︎」と言っていたことは記憶に新しい。
だから芭蕉は曽良に気を利かせて俳句を作ってプリントに載せたのだろう。少しでも五・七・五の日本語のリズムに親しみを持ってもらうために。曽良は意外にも古典が苦手だった。
曽良が芭蕉に提出した課題のプリントの端は見事に全て丁寧にハサミで切り取られていた。つまり、俳句部分が消失している。
「え、ちょっと曽良くん、私の書いた俳句は?」
「あまりにもウザかったので切り取って捨てました」
「チクショーッ‼︎鬼だよこの子‼︎」
嘘だ。
曽良は芭蕉の書いた俳句は全て、大切にクリアファイルに入れて保存していた。俳句だけではない。貰ったプリント、手紙、それら全て、保管している。
「大体、『曽良曽良ファイトだオー』って俳句なんですか」
「俳句だよ‼︎もうセンス輝きまくりの俳句だよ!」
「ひとつも五七五調が見当たらないのですが」
「き、気のせいだよ!」
「自由律俳句だとかいう言い訳もできないんですか」
ひとつ溜息をつく曽良。静かに教科書を開く。
芭蕉の教え方は正直に言って、上手かった。以前、古典の文というのは日本語の文字を用いてはいるものの、地球上の言語では無いとさえ思っていた曽良が、何と無く意味を垣間見ることが出来る瞬間というものが増えたのだから、大きな進歩である。
芭蕉が曽良の家庭教師になってもうじき2ヶ月になる。その期間が長いのか短いのか、曽良には判別が出来ないが、ひとつ言えることとして、自分は芭蕉と話をすると口が軽くなってしまっている気がして仕方がないということだ。もともとそんなに口数の多い方ではないし、はたから見れば曽良はやはり寡黙なのだけれど、曽良自身としては芭蕉と話をしている時は内心落ち着かないのだ。うっかり口を滑らせてしまったらと思うと気が気でない。
例えば、自分が突然、その手に触れたいと言ったら、芭蕉はどんな顔をするだろうか。
否、手だけではない。もしも不意に自分が芭蕉へ向かって、その指に、首に、耳に、唇に、触れたいと言ったら。
「曽良くん、どうしたの?」
芭蕉の声で一気に現実に引き戻される曽良。はっとしたように顔を上げる。
「体調悪いの?」
「…いえ、大丈夫です」
つんのめるように答える曽良。必死に動揺を隠す。幸いにも芭蕉は曽良の内面的なそれに気がつかなかったのか、「そう?ならいいんだけど」とだけ言ってテキストの解説に戻った。心の中でほっと胸を撫で下ろす。
この気持ちは決して知られてはならない。それだけは理解しているから。
週に2回だけの家庭教師、初めはとても嫌だったのに、芭蕉に出会ってからはその日が待ち遠しくて仕方がなくなった。それが芭蕉への尊敬の念なのか、あるいは他の感情なのか、曽良には図りかねる。
(あと数センチ、右に寄れば…)
芭蕉の肩に触れられるというのに。
「曽良くん」
再び名前を呼ばれる。
「…はい」
「ちょっと顔色見せてくれない?」
形だけはとりあえず机の方へと向けていた顔をゆっくりと上げる。目はとてもじゃないが合わせられるような心境ではないけれど、ここで目を逸らす方が不自然であると判断。曽良は真っ直ぐ芭蕉の方を向いた。
「何かお気に障ることでもありましたか、芭蕉さん」
「うーん、そういう訳じゃないんだけど」
そっと自分の手を曽良の頬へ触れさせる芭蕉。曽良の身体がびくりと震える。そのまま芭蕉の手は曽良の前髪をそっと掻き上げ、額を露わにさせた。恐らく、体温を測ろうとしているのだろう。 流石に思わず目を伏せる曽良。こんな至近距離で芭蕉の方を落ち着いて見ていられる方がおかしい。
芭蕉の体温は曽良よりも少し高くて、秋のこの時期には程よい、まるで湯たんぽのような温かい手をしている。その芭蕉に触れられた部分の皮膚にだけ、その芭蕉の体温ははっきりと残っていた。
クチュッ
「…え?」
予想外の音に、曽良の目が見開かれた。思わず芭蕉の顔を見上げる。しかし、そこにあるのはいつもの、柔らかい孤を描いた目をした芭蕉の笑顔だ。
「あれ?違った?」
状況の飲み込めない曽良はゆっくりと瞬きを2.3回繰り返し、やがてその色を抜いたような白い肌がみるみるうちに紅潮。遂には顔を上げることすら叶わなくなった。
「ちょ、曽良くん⁉︎ごめん、もしかして嫌だった⁉︎」
「…っ、今度殴ります」
「えぇ⁉︎殴らんといて⁉︎」
ヒィン、と言って咄嗟に腕で頭をガードする芭蕉。しかし、曽良に全く動きがないことを見て、不思議そうな顔をした。
「あれ?今度って…今殴るんじゃないの?」
「……今度です」
今はちょっと…
そう言って両手で顔を覆う曽良。
駄目だ、このままでは。絶対にいけない。
頭でははっきりとわかっているというのに、精神の方はそれに伴うことをしてくれなくて、曽良の心を掻き乱す。
(このままでは本当に…)
好きになってしまう。
だけどその人に自分は今、
確かに額へ口づけを落とされたのだ。