薄桜鬼

□想いが泡になる前に
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海面から顔を出し、空に浮かぶ月を見上げる。
浜辺では宴会かなにかやってるらしくて、賑やかな笑い声や歌声が風に乗って聞こえてきていた。
私には一緒に騒ぐ仲間がいなかったので、その声が羨ましくて仕方なかった。けれど、行くことはできない。浜辺に近づくことはできても、陸に上がることができないからだ。
尾ひれを水面に出し、ぱしゃんと波を打つ。人魚でも仲間に入れてくれるだろうか、なんて考えて笑ってしまった。捕まって見世物になるか、三枚におろされてお皿に並ぶかのどちらかだ。人魚の肉は不老不死の妙薬だとか、人間たちが噂しているのを聞いたことがある。
薬になるかどうかは知らないが、捕まるのは嫌だ。私は浜辺を避け、人のいない岩場へと移動した。

岩にもたれ、月を眺めながら、小さな声で歌を歌った。
波音に紛れそうなくらい小さな声なら、誰にも聞こえないと思った。

なのに。

「誰だ?」

突然聞こえてきた低い声に、私は驚いて身を固くした。

「誰かそこにいるのだろう。顔を見せろ」

命令する声は、男の人のようだった。私は動くことができず、岩の陰で身を竦めているばかり。
頭の中で、お刺身になった自分の姿がぐるぐる回る。逃げなきゃ、と思うのに、怖くて怖くてどうすることもできない。

「………女、もう一度歌ってみろ」

岸から離れた岩に座っていたおかげで、男の人は私の側には来れないらしい。顔を出させることも諦めたらしく、声の調子を少し変えた。
威圧的ではない、優しい声。

「不思議な歌だ。そんな歌は今まで聞いたことがない」

「………………」

それはそうだろう。だってこれは人魚たちの間で歌われる歌なのだから。

「もっと聞きたい。そこからでいいから、歌え」

相変わらずの命令口調だけど、声は優しい。

私はそっと岩陰から岸を窺ってみた。
輝く金色の髪と、鋭く光る紅い瞳。
とてもとても美しい人が、岸壁に座りこんでこちらを見ていた。
目が合った気がして、素早く隠れ直した。胸がどきどきする。なんてきれいな人なんだろう。

「どうした?歌を忘れたか?」

からかうような声に、私はしばし迷ってから歌い始めた。
他の人間たちに見つかるのは怖いから、やっぱり大きな声は出せない。
でも、男の人にはちゃんと聞こえているようだった。背後の岸にその人の気配を感じながら、私は静かに、でも一生懸命歌った。
胸は苦しいくらいにどきどきしていて、頬がすごく熱くなっている。病気になってしまったかと心配してしまうくらいだ。

やがて月が西に傾きかけた頃、男の人が立ち上がった。

「よい月見だった。また機会があれば歌を聞かせてくれ」

返事をしてもよいものか、私にはわからなかった。
黙っていると岸のほうから砂利を踏む音がしてきて、そっと覗くと男の人がどこかへ歩き去る後ろ姿が見えた。

金の髪がきらきらと輝き、また胸が苦しくなる。

海の中へ戻っても、どきどきは収まるどころか強くなるばかりだった。

私は恋をしてしまったようだ。あの金色の髪と紅い瞳が、頭から離れない。

悩んだ末、魔法使いの人魚のところへ相談に行った。恋するなんて初めてで、どうすればいいのかわからなかったからだ。

でも、ひとつだけはっきりしていた。

側へ行きたい。

あの人の側へ行って、同じ時を共に過ごすことができたら。

その願いを聞いた魔法使いの伊東さんは、考えこむように眉を寄せた。
「できなくはないけど、難しいわよ?」
「頑張ります!だからどうか、」
「………でもねぇ」
伊東さんは気の毒そうな顔で私から目を逸らした。
「代償は、高くつくわよ」
「代償……」
「それでもいいのかしら?」
「…………………はい。よろしくお願いします」
私は頷いた。
伊東さんは、それではと魔法の本を開いた。

こうして私は二本の足を手に入れ、人間として陸に上がることができた。

「想いを寄せる人と結ばれなかったら、あなたは泡になって消えてしまうわよ。だから頑張って、そいつのハートをゲットしなさい」

そう言って励ましてくれた伊東さんの言葉を思い出して、うーんと考えこんだ。泡になるのは嫌だけど、正直ハートをゲットできる自信もない。ただ側にいることができれば、それで満足なのだけど。

少し歩いて、私は座りこんでしまった。足がひどく痛む。刺が無数に刺さっているかのような痛みに、それ以上踏み出すことができなくなった。
仕方なく膝を抱え、空を見る。あの夜と同じくらい明るくて大きな月が輝いている。
あの人の髪は、あの月よりも美しかった。
どこへ行けば会えるんだろう。陸は海よりも複雑で広くて、どっちへ歩けばいいのかもわからない。

ため息をついて、俯いた。
私はもしかして、ずいぶん早まったことをしてしまったのかもしれない。



そのまま、眠ってしまって。



気づいたら、知らない家に寝かされていた。



「目が覚めましたか」
怖い顔の男の人が、それに似合わない優しい声で言った。
「行き倒れていたところを、主人が見つけて連れて帰ってきたのですよ」
天霧と名乗ったその人は、私を安心させるように笑った。どうやら怖いのは顔だけで、優しい人のようだ。
「どこから来たのですか?名前は?」
「…………………、」
返事をしようと思ったのに、声が出ない。
ああそうか。声はこの足の代償に取られてしまったんだった。
口をぱくぱくするだけの私を見て、天霧さんは頷いて紙と筆を持ってきた。
「口がきけないのですね。では、これへ書いてください」
受け取って名前を書いたけれど、それを見た天霧さんが首を傾げる。
「どこの文字でしょうか……私には読めないのですが、異国の方なのですか?」
人魚と人間では、使っている文字が違うらしい。
私は筆談を諦めて、仕方なく頷いてみせた。
「……そうでしたか……では、船が難破でもして流れついたというところでしょうか?」
人魚だったなんて、言ったらお刺身にされるかもしれない。私はそれにも頷いた。天霧さんは納得したように頷いたけど、また思案するように首を傾げた。
「しかし、名前がわからないというのは困りましたね。呼び名がないと不便ですし……」
それは頷くだけではどうにもならず、私も一緒に首を傾げる。どうすれば教えることができるだろう。

そのとき、障子が開いた。
「目が覚めたか」
あの人が部屋に入ってきて、驚いた。
「まったく、あんなところで丸くなって眠っているとは呑気にもほどがある。バカなのかおまえは」
言いながら座るその人を、天霧さんがたしなめるように見た。
「船が難破して、流れついたそうです。寝ていたわけではないようですよ」
「ふん。同じことだろう」
「それより風間様、この人は口がきけないようです。異国の方らしく、文字も何語なのかわかりませんので、名前を聞けないんです」
風間様と呼ばれたその人は、眉を寄せて私を見た。
「………口が…?」
なにやら考えるような顔になり、それからふぅと息をつき、私を見る。
「言葉はわかるのに字は書けないのか。難儀なやつだな」
「………………」
書けないんじゃないもん、文字が違うだけだもん。
そう言いたいけど声は出ないので、私は黙って俯いた。
「名前くらい、好きにつければいいだろう。呼ぶだけなら適当なので十分だ」
て、てきとう……。
「千鶴、にするか」
千鶴?
「よし、おまえは今日たった今から千鶴だ。呼ばれたら返事をしろ」
いやだから声が出ないんだってば。
抗議をしたくてもできない私を置いて、金色の人は満足そうに部屋から出ていった。
「………千鶴、ですか」
天霧さんは意味ありげに呟いて考えこむ顔をしていたけれど、すぐに私に笑顔を向ける。
「お腹がすいたでしょう。今、なにか持って来ますね」
え。そんな、寝かせていただいた上にごはんまで。
そこまでお世話になるわけにはいかないと、私は慌てて首を横に振って布団から抜け出そうとした。
「気にしなくていいですよ。風間様は、おそらくあなたをこのまま屋敷に居させるつもりのようですし」
そ、そうでしょうか。そんなことなんにも言ってませんでしたが。
「ゆっくり休んでいてください。すぐ戻ります」
天霧さんは丁寧にお辞儀をして、どこかへ歩いていった。
残された私は呆然と、部屋の中を見回した。ずいぶんなお金持ちのようで、ぱっと見ただけでも浜辺に建ち並んでいた家々とはまったく違うことがわかる。金銀で風景が描かれた襖や、細かく彫刻が施された欄間。私が寝ている布団も、嫌というほど綿が詰め込まれていてふかふかだ。赤い花を美しく刺繍してある掛け布団を撫でてみれば、滑るような肌触り。これは噂に聞く絹というものではないだろうか。とても高価なその布は、沈没した船から持ち帰った人魚によって海の底でも高値で取引されているという。
見たこともないような豪華なものが惜しげもなく並ぶ部屋の真ん中で、途方に暮れた。初めて恋をしたあの人は、どうやらとんでもなく身分違いな人らしい。これでは想いを遂げるどころか、お側にいることも難しそうだ。
しばらくして天霧さんが戻ってきて、私にごはんを出してくれた。湯気のたつ熱い料理は海底にはなかったもので、とても美味しかったけれど。
落ち込んでいく気持ちは、どうしようもなかった。



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