薄桜鬼
□ずっと、あなたと一緒に
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結婚したら、旦那様のことをなんて呼ぼう。
「あなた」なんて、ちょっと恥ずかしい。
「あんた」は、なんだかおかみさんぽい。
よく、子供が生まれたらお互いを「とうちゃん」「かあちゃん」なんて呼び合うのを聞くけれど、私はやっぱりいつまでも恋人みたいな夫婦でいたいから。
なんて呼べばいいかなぁ。
昔、結婚についてそんなふうに考えていたことを、今になって思い出した。
あれは、近所のおねえさんがお嫁に行ったときのことだ。白無垢姿で髪を結い上げたおねえさんはとてもきれいで、旦那様はとても素敵な人で。羨ましくて見つめていたら、おねえさんが微笑んで頭を撫でてくれた。
『千鶴ちゃんも、いつかきっと素敵な人に出会ってお嫁さんになるのよ』
まだ十になったばかりの私には、夢のようなこと。けれど、おねえさんの言葉が嬉しくて、そしておねえさんがよそに行ってしまうのが寂しくて、泣いてしまったのを覚えている。
あれから色んなことがあった。なぜか男装して男の人の集団に混ざったり、戦に一緒に参加したり、鬼につけまわされたり。
そうして、結婚だのお嫁さんだの、すっかり忘れてしまっていた。
前を歩く人の背中を見た。
私の手を引きながら歩くその人は行く手を見つめたまま、こちらに振り向くことはない。
振り返ると、もう江戸の町は見えなかった。街道には人影もなく、私たち二人の影だけが夕焼けに染まる道に長く伸びている。
迎えにきた、と言われた。
準備はできた、あとはおまえだけだ。
その言葉に、つい心が舞い上がってしまったのは内緒だ。多分、私はずっと待っていたのだ。この人がこうして迎えにきてくれるのを、ずっと。
「今夜はあそこに泊まるか」
ふいに聞こえた言葉に顔をあげる。小さな旅籠町が山道を下ったあたりに見えてきていた。
「疲れただろう。あと少しだ」
言われて不思議な気分になる。蝦夷への旅のときには、そんな言葉をかけてもらった覚えはなかったからだ。
妻になれ、子を産め。
そう言われてはいたけれど、それに愛情なんてものは欠片もみつからなかった。瞳は冷たいままだったし、優しくされたこともなかった。
だから嫌だった。ただ道具みたいに扱われ、用が済めば捨てられるだけなんて、そんなのは真っ平だと思った。
けれど。
いつからだったろう。この人の紅い瞳に暖かいものが混ざるようになって、差しのべられる手が優しくなったのは。
黙った私を不審に思ったのか、前を歩く人がふいに振り向いた。
「どうした?」
紅い瞳が私を見つめている。
そこにはやっぱり、初めて会った頃のような冷たさはない。
じっと見ていたら、形のいい唇が意地悪な笑みをつくった。
「声も出ないほど疲れたか。おんぶしてやってもいいぞ?」
「違います!ていうか、また子供扱いしてますね?」
むっとして言い返すと、その人はおかしそうに笑った。
以前みたいな、歪んだ酷薄な笑みじゃない。声をたてて笑い、私の手を握り直す様子は、なんだか別の人みたいに見える。
「じゃあ行くぞ。宿に着いたら、足でも揉んでやろう」
「いりません!」
「なんだ、違うところを揉んでほしいのか?」
「違います!もう、意地悪ばっかり言うんだから」
睨んでみたけど効果はない。
「怒った顔も悪くないな」
その言葉と同時に、唇に柔らかな感触。
「ちょ、ダメです!こんなところで」
「誰もいないぞ」
「そういう問題じゃありません!」
くすくす笑う顔を見ていたら、なんだか怒る気も失せてくる。数日前にいきなり私の家へやってきてから、こんなやりとりばかりだ。
「あ」
聞いてみようかと、ふと思った。
「なんだ?」
見下ろしてくる、優しい瞳。
聞いたら、なんて答えるだろう。
「あの。風間さんは、結婚したらなんて呼ばれたいですか?」
「………は?」
思ってもいなかった質問らしい。紅い瞳が真ん丸になった。
「いやだから。私、鬼の里に着いたらお嫁さんになるんですよね?」
「もちろんだ。祝言の用意もできている」
「そしたら、私も風間になるじゃないですか」
「そうだな」
「だったらいつまでも風間さんて呼ぶわけにもいかないし」
「……………………」
意外にも真面目に考え込んでいる。好きに呼べ、とか言われると思ったのに。
「………そうだな。あなた、とかもいいが、普通すぎるしな」
いや普通でいいと思うんだけどダメなんですか。
「ご主人様、というのも……いやいや、それでは使用人のようだし」
ぶつぶつ言いながら歩くその人の目は、まるで人生最大の難問にぶつかったかのように真剣だ。
「……風間さんは、私のことはなんて呼ぶんですか?」
「千鶴だ」
「子供が生まれても?」
「ああ」
当然みたいに頷いて、こちらを見る。
「千鶴は千鶴だ。母親になろうが婆さんになろうが、変わらんだろう」
意識したふうでもなく言われる言葉に、思わず笑顔になってしまう。
そうか、この人は私がおばあちゃんになっても一緒にいてくれるんだ。
何年も、何十年先も、隣に。
「だったら、私も名前で呼ぼうかな」
「名前?」
「はい。千景さん、って」
言った途端、紅い瞳がさっきよりさらに大きくなった。
え。
まずかった?
私、いけないこと言った?
焦る私を見つめる風間さんの顔が、みるみる赤くなる。
「………まさか、照れてます?」
はっとして、慌てて前を向く風間さん。耳も首も真っ赤だ。
「て、照れるなどあるわけなかろう。おまえは俺の妻になる女なんだ、名前で呼ぶなど当たり前のことだ」
早口でまくしたてて、さあ行こうと手を強く引く。
そんな風間さんが意外に可愛くて、こっそり笑った。
『素敵な人に出会って、お嫁さんになるのよ』
おねえさんの言った通り、私はこれ以上ないくらい素敵な人に出会った。やがて里に着けば、その人のお嫁さんになる。
「急ぎましょう!私、お腹空きました!」
風間さんを追い越して、引かれていた手を引っ張ってみる。
風間さんは仕方がないやつだなと苦笑して、されるがままに手を引かれてくれる。
私はそのときようやく、風間さんのお嫁さんになることが心の底から嬉しいと思った。
終,